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第1話

八重垣菊之丞(やえがき きくのじょう)は兎に角、堅物で面白みの無い男である。 幼少期の頃から声を荒げる事もあまり無く、書物を読み耽る子であった。 武士の家に生まれ、この様に気弱なままでは如何なものかと心配した父親の羽左衛門は、息子に武術を磨く様にと片っ端から習わせた。 その甲斐もあり、馬術、弓道、気合など一通り武士としての腕は立つ様になった。 長身である為、何もしていなくとも相手がひるむ程だ。 数年前に定町廻り同心になった菊之丞は決められた地区を巡回・治安維持にあたっている。 「八重垣殿はちと真面目すぎていかんなあ」 「はあ…」 与力の岡崎にそう言われ、菊之丞は身を縮めた。 ※与力…同心の「上司」にあたる 背の低い岡崎は、菊之丞を見上げつつ、ふうとため息をつく。 「町人達と馴れ合えとは言わんが、馴染みを作るのも同心の役目。もう少し心を開いたらどうだ」 そう言う岡崎は同心時代、町人との絆が強く、情報網が広かったことから難事件を解決に導いたことが何度もあった。 低身長と人懐っこい顔が一役買っている。 菊之丞といえば威圧を感じられる程の長身と、端正な顔ながら何処(どこ)か近寄りがたい顔をしていてなかなか町人との交わりもできずにいた。 酒も博打も全くせず、何の面白味の無い菊之丞を町人たちは多少(うと)んじているように菊之丞は感じていた。 今更どの様に変えろと言うのかと菊之丞は正直ウンザリしていた。 町人に媚を売って同心なぞ務まるものかと。 そんな役目は御用聞きにさせておけば良いのだ。 ※御用聞き…同心が私財で雇っている使用人。別名岡っ引き 肩で風をきって歩く菊之丞。 夏の盛りも過ぎた最近では暮れ六ツ(午後十八時)にもなるとかなり薄暗い。 今日はいつも側にいる御用聞きもおらず、独りでの帰宅だ。 遠くから野犬の鳴き声が聞こえている。 (すっかり遅くなってしまった) 歩を幾分か早めながら、家路を急ぐ。 武術に長けた菊之丞は夜道、独りで歩くことは苦ではない。 (むし)ろ町人達がいない街を歩く方が昼間より気が楽だ。 こんな性格で同心など務まるものかと自嘲(じちょう)しながらも早3年。 内勤への鞍替えも考えたが、空きが無いためこの生活を続けていた。 月の光が落ちてくるようになった。通りすがった長屋から飯のいい香りが鼻腔をくすぐる。 犬の遠吠えに合わせた鳴き声が、近くから聞こえる。 足早に歩いていた菊之丞の歩みが止まった。 長屋の角からスッと出てきたのは野犬だ。先程近くで鳴いていた犬だろうか。 江戸の街を彷徨う(さまよ)野犬は目つきも鋭く口の端から涎を垂らして菊之丞を見ていた。 正面を立ち塞がられた格好になった菊之丞の身体は硬直している。 菊之丞は犬が苦手であった。 幼少期に襲われたことがありそれが大人になった今でもトラウマとなっていて、身体が固まるのだ。 犬が近づく前に斬り捨てて仕舞えば良いのだが、昨今の将軍綱吉が下した「生類憐みの令」の所為で()れもままならない。 野犬を斬り捨てることも禁じられた今、奴等は大きな顔をして街を闊歩(かっぽ)しているのだ。 故に人間が襲われ怪我をする事案が後を経たない。 野犬がジリリと菊之丞の方を狙っていた。 逃げようにも身体が言う事を聞かず、野犬の後ろ足が地を蹴り襲いかかる瞬間、菊之丞は思わず眼を瞑った。 その刹那。 右腕を何者かにきつく引っ張られて、菊之丞は身体を持っていかれる。 「こっちだ!」 男の声と共に長屋と桶の間に身体を押し込まれた。 野犬は吠えながら、菊之丞の姿がなくなってもそのまま走りだしてそのうち姿が見えなくなった。

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