3 / 13
第2話
遠のく声にホッとしながらも自分の今の格好に我に帰る。
手を広げて桶の上に叩き込まれたまま、仰向けになっていた。
野犬に噛まれるよりは数倍も良いのだがかなり間抜けな格好に慌てて立ち上がる。
その時、目の前に長い手が伸ばされた。
「思い切り投げすぎた、すまねぇ」
薄暗くて顔が良く見えない。
だが笑いながら此方 を見ていることは分かった。
先程菊之丞の腕を引っ張り、野犬から隠してくれたのはこの男か。
差し出された手を遠慮なく掴み、ゆっくりと立ち上がりながら男の顔を見ることが出来た。
歳は同じくらいの男だ。
鼠 色の少しくたびれた着流し。腰には脇差。
如何やら武士ではないようだ。
人懐っこそうな笑い顔だが、右頬に刀疵 のようなものが見える。
「あ、いや。こちらこそ助かった」
言葉少なく菊之丞が礼を述べると握っていた男の手を離す。
「何で斬らない?…あぁ、あの殺生禁止令か。其れにしても旦那さん犬が苦手なのかい?」
右手で顎を撫でながらジッと菊之丞を見た。
大の男が犬相手に硬直してるなんて、さぞかし可笑しかったのだろう。
「…幼少時に襲われたことがあって…」
「ふぅん」
舐めるように見ながら、まあ次は気をつけるんだなと男は踵 を返す。
「あ、何か礼を」
咄嗟 に菊之丞が男の手を取る。
手を取られた男は勢いよく払いのけ、振り返った顔は酷く狼狽 していた。
「すまない」
急に腕を掴まれたものだから、驚いてしまったと男は頭をかきながら元の顔になっていた。
礼をされるほどの事はしていないと男は言うが、自分の気が済まぬからと菊之丞は言う。
「…じゃあそばでも食おうと思って歩いていたから…ご馳走してもらうかな」
このすぐそばにそば屋が出てるはずだと男が案内する。
男の名は山之内芳次郎 といった。
菊之丞とは同い年だが、少しばかり幼く見えるのは伸ばした髪を後ろで括っているからだろうか。
月代ではない髪型だとつい歳下に見えてしまう。
「やっぱうめーな、ここのは」
常連なのか店主とも盛り上がりながら、夜鳴きそばをすする。
誘った割には何も喋らない菊之丞。
だいたいに人付き合いが苦手なのに、初対面の男とこうしてそばを啜るとは。
「なあ、美味いだろ」
「そうだな。あまり食べに出ることがないから知らなかった」
「同心の旦那さんならあちこち行くだろうに」
「私は苦手なんだ、そういうのは」
苦手なものが多いんだなとカカと笑う芳次郎にムッとする。
礼をしたら出会う事もあるまい、と自分の気持ちを抑えて箸を進めた。
そば屋を出て芳次郎は背伸びをしながら菊之丞と並び歩く。
月の光が辺りを青白く照らす。
どこまでついてくるのかと思いつつ、我が屋敷に着いた菊之丞はもう一度丁重にお礼を言い、門をくぐる。
「旦那さん、気をつけてな」
ふと振り返ると芳次郎が此方 をジッと見ていた。
ともだちにシェアしよう!