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 「葉月」と「霜月」は、今邑家当主兄弟の名前である。  そして「葉月」「霜月」と呼ばれている自分と次兄は、殺しても殺し足りないほど憎悪している彼らの名を、あずさの前でだけ名乗っている。  あずさの目の前にいる「大人の男の兄弟」は、今邑家当主兄弟でなければならないからだ。  屋敷に戻った霜月は、抱えてきたあずさのために(しとね)を用意させた。  身を清めてやりたい、と下女に指示すると、あずさと親しい琴音がすぐに水を張った桶や着替えを持ってきた。 「記憶を、取り戻されたと聞きました」  身綺麗になったあずさに上掛けを掛けてやりながら、琴音が責めるような目を霜月と、その隣の葉月へと向ける。  騒動の発端を作ったのは、屋敷から出るようあずさをけしかけた葉月だ。無言の(きつ)(もん)を二人から向けられ、葉月は諦めたように細く息を吐いた。 「……忘れられているのが、耐えられなかった。もう、一年も経つのに」  痛みを堪えるかのような憂い顔で、葉月は眠るあずさを見つめている。いつもの氷の如き無表情は、「葉月」を演じるために彼が身につけた忌まわしき仮面だ。  自分も「霜月」として露悪的に振る舞うのを今は止めている。彼も琴音も、更に言うならばこの屋敷に仕える大半の使用人は、自分達の共犯である。 「決めたことだろう。兄上の『現実』を守るためなら、俺達は何でもするって」 「解ってる。……解っていたつもりだった。今日兄上が、うわごとのように私達に謝るのを聞くまでは」  この数日間、霜月は元々交流のある遠方の集落を訪ねていた。  本家当主が一年前、子を為さずに相次いで病で()(まか)ったため、分家当主兄弟である自分と次兄がその後を継いだ、という説明をするためだ。  予定を切り上げて早めに帰ってきたのは、果たして虫の知らせだったのか。  屋敷に戻ると、使用人達が騒然としていた。次兄があずさを逃がしたと聞いて、霜月は矢も楯もたまらずあずさを探しに出た。  花の中で見つけたあずさは、すっかり我を失っていた。  一年前のあの日。本家に召し上げられていたあずさと、約十年ぶりに再会した時と同じだった。 ------------------------------------------------------------------------  ずっと音沙汰のなかった本家から、長兄に会わせてやると使いが来て、自分と葉月──次兄は、大喜びでこの屋敷を訪れた。  とある部屋で待たされていた自分達の存在は、長兄には秘密にされていたらしい。何も知らない長兄は障子の向こうで兄弟に奉仕を始め、やがてあられもない嬌声が聞こえてきた。  長兄がこの屋敷でどんな扱いを受けていたか、瞬時に悟って烈火のような怒りが湧いた。  と同時に、気持ちいい、もっとしてとねだる喘ぐ声に、浅ましくも股間が熱くなるのを感じた。  実兄の痴態に興奮するだなんて、なんて罪深いことを。焦って昂ぶりを抑えようとしたものの、背徳感は欲望を更に膨れ上がらせるだけだった。  別れた時に幼かった自分も、今では大人の男である。今すぐ障子を()(やぶ)って、あの(みだ)らなメスにむしゃぶりつきたいとさえ思った。  救いを求めるように次兄に目をやると、彼は強ばった肩を震わせながら、荒い呼吸を繰り返していた。  次兄もまた、敬愛する長兄に欲情していたのだ。    そしてその劣情を、当主兄弟に見抜かれた。 『おまえの弟達を呼んでおいた。我らに犯されてよがり狂うはしたない声も、聞こえていただろうな』 『こいつらの股間を見てみろ。おっ立てているじゃないか』 『いい兄だ。弟達にも、おまえの体を味わわせてやれ』 『これからは兄ではなく、こいつらの“女”だな、アハハハハ』  ────それだけは嫌だと言ったのに!  真に絶望した長兄の叫びを、自分は生涯忘れることはないだろう。  長兄は、嘲笑する「葉月」と「霜月」の前から逃げ出した。そして戻った時には、その手に()(なん)の使う(なた)を握り締め、驚く「葉月」と「霜月」へと振りかぶった。  止める間などなかった。  長兄は狂乱の鬼がごとく金切り声を上げ、「葉月」と「霜月」の腕へ、脚へ、そして首へと刃を振るい、辺りは一面、真っ赤な血の海と化した。  返り血に染まった長兄は、虚ろな瞳で(にく)(かい)となった男達を見下ろしていた。  乱れた髪も脱げかけた(ひとえ)も、真珠のように白く滑らかな肌も、おぞましいほどにべったりと赤く濡れていた。  なのにその姿は、神々しいほどに美しかった。  長兄は、棒を飲んだように立ち尽くしていた自分と次兄へと、ゆっくり向き直り、  ────……会いたかった、ずっと。    そう微笑んだのを最後に、気を失って血の中へと倒れた。  再び目覚めた時。長兄は自分の罪と共に、十年分の記憶を失っていた。  そしてあろうことか、目の前にいた「大人の男の兄弟」である次兄と自分を「葉月様、霜月様」と呼んで平伏し、彼らにしていたのであろう性的な奉仕を始めたのだ。    無論拒み、自分達は兄の弟であると、兄の記憶を取り戻させようとした。  だが兄は「弟達はまだ幼い子供」と、十年前を今だと信じ込み聞き入れない。自身の現在の年齢は理解しているのに、彼の中で弟は「幼い子供」のままなのだ。  歯痒さと焦燥に混乱していたところで、次兄が突然、長兄を組み敷いた。 『兄貴、何をっ』 『……これが兄上の「現実」を守ることになるのなら、地獄の果てまで付き合おう。……“あずさ”』 ------------------------------------------------------------------------ 「おまえに『霜月』になれと説いたのは私なのに。先に兄上を犯したのも私なのに。すまない……申し訳ない」  (うな)()れた次兄を、自分も琴音も、それ以上責められなかった。  次兄の過ぎる優しさは、父が案じていたように弱さでもある。だが、そんな次兄が身を切る思いで決断してくれたからこそ、自分も、そして使用人達も、長兄の『現実』を守るため、嘘をつき続ける決意が出来たのだ。  琴音を始めとする本家の使用人達は、元々本物の当主兄弟に反感を持っており、手酷く扱われている長兄にずっと同情してくれていたという。兄弟の死体を山深くに埋めて長兄の罪を(いん)(とく)し、自分と次兄が本家を乗っ取る手助けさえしてくれた。 「……また何か御用があれば、お呼びください」  琴音が気遣わしげにそっと頭を下げ、自分達を残して部屋から去った。  既に陽は落ち、心許ない灯火の明かりだけが、自分と次兄の間で揺れている。  長兄は、まだ目を覚まさない。────いや、永遠に目覚めない方が幸せなのではないだろうか。  この一年、「霜月」として長兄に無体を強いてきた。  様々な方法でその柔肌を貪ってきたのは、長兄の知る「霜月」を演じるため。……いや、それが()(べん)だと、とっくに自分は気づいてしまっている。    幼い頃は、自分を剛毅な男だと思っていた。なのに実際は、本家の威光を恐れて縮み上がり、十年もの間長兄を待ち()びるだけの、意気地のない、卑怯で器の小さな男だったのだ。  そんな自分が、この美しい人を抱いているだなんて。犯せば犯すほど、嬲れば嬲るほど味の増す極上の“女”を、雄として支配することに無上の悦びを感じている。  なんて(しゅう)(あく)な。そして、なんて幸福な。   自分は今、この世で最も愛しい人に、  この世で最も憎い男の名で呼ばれ、  長兄を──愛しいあずさを、心のままに抱いている。  ん、と鼻に抜けるような吐息と、身じろぐ音が聞こえた。  自分と次兄がハッと褥を見遣ると、あずさがうっすら瞼を開いているところだった。 「ここは……?」  ぼんやりしたまま辺りを見回す彼の視線が、仮面を被っていない自分と次兄の上で止まる。  息をのむ。その第一声を、固唾(かたず)をのんで待つ。 「……葉月様、霜月様」  (しん)(えん)の絶望に叩き落とされた。  だが同時に、(あん)()もした。  いつかの次兄の言葉が脳裏に(よみが)る。  それは決して口には出せない、自分の魂の叫びでもあった。 (地獄の果てまでもお供いたします。……愛する、あずさ兄上)    よろよろと布団から抜け出し、自分達の前に平伏したあずさの姿は一年前と全く同じで──いや、一年前より十年前より、ずっと美しく魅力的だ。 「お休みをいただいていたようで、恐縮です。……お()びに、何なりとお申し付けください」 「……では、すぐに脱げ」  灯火の向こうで、次兄は「葉月」の冷酷な仮面を被る。  自分同様、これがあずさの心を守る唯一の(すべ)だと自分に言い聞かせ、そして秘めた恋心と欲を満たすために、嘘の世界を守り続けるのだろう。 「こちらに向かって脚を開け。……ハハッ、いい眺めだ」  そして「霜月」となった自分が、期待でうち震える肢体へと覆い被さる。  迎えるあずさはどこまでも(せん)(じょう)的で、悶える様さえ愛らしく、男達の精を際限なく腹の中へと(しぼ)り取る。 「葉月様、霜月様。……ああ、気持ちいい……もっと、もっと深くに……」  再び始まるのは、箱庭に閉じ込められた愛欲の日々。  死が三人を分かつまで、嘘に守られたヒガンの花は咲き続ける。 

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