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九
あずさは屋敷の門の前に立っていた。
着の身着のまま荷物も持たず、草 履 すらない裸足である。
内側からなら自由に開けられる通用門の閂 に、あずさは震える指をそっと掛ける。禁じられていた鍵は、呆気ないほど簡単に外れた。
あれきり何も言わず、振り向きもしなかった葉月の部屋から、逃げるようにしてここまで来た。
周囲に首を巡らせるが誰もいない。心臓が緊張に高鳴って、破れてしまいそうだ。
この木戸を押しさえすれば、自分は弟達の待つ家に帰れる。
様子のおかしかった葉月の、これはいったい何の気まぐれか。まだ半信半疑だが、葉月の言うように、きっと霜月のいない今しか機会はないのだろう。
今を逃せば、二度と弟達に会いに行けない。
(……でも、会っても、いいのか?)
何年か前、他の集落からの客人の饗 宴 に侍 らされ、彼らの目の前で兄弟に抱かれた。さらにその痴態にいきり立った客達に、失神するほど手酷く犯された。
奉公人として兄弟に仕えるのならまだしも、他の男にメスとして与えられるだなんて。そんなことをされたら、自分は本当に売女になってしまう。
だから嫌だと必死に拒んだのに、抵抗するなと殴り飛ばされ、裸に剥 かれた。口にも尻にも雄をねじ込まれ、好色で下劣な男達を満足させるためだけの、モノとして扱われたのだ。
自分は汚い。
汚されたからではなく、犯されながら悦んでいたからだ。
痣だらけの体で、雄の白濁にまみれながら、いつしか恍 惚 と微笑んでいた。
こんな穢 れきった兄を、弟達は許してくれるのだろうか。
自分を純粋に慕ってくれる幼くて可愛い子達に、自分は兄と名乗って許されるのだろうか。
────許されないのではないか。
「……でも、会いたい。弟達に会いたい……!」
悲痛な叫びを上げたあずさは、キッと眼前を見据えた。
頭の中で、真っ赤な悲願の花が咲く。
意を決して扉を開き、外へと走り出た。
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上の弟は物静かで、感受性豊かで傷つきやすい子だった。
その心の弱さを父に心配されていたが、あずさは彼の優しさを愛しく思っていた。
彼もまた、自分の繊細さを理解する兄を信頼し、あずさのように立派な兄になりたいと、憧れと尊敬を抱いてくれた。
下の弟は意志が強く男気に溢 れ、誰よりも家族を大切にする子だった。
少々粗 野 な振る舞いを母に心配されていたが、あずさは彼の一本気なところを好ましく思っていた。
彼もまた、自分の言い分をきちんと聞いてくれる長兄を信頼し、あずさが叱ればきちんと非を認める素直さがあった。
幼い内に両親を亡くしてしまったあの子達を、自分は守らなければならない。そう思えばどんな苦痛も我慢出来た。会えなくても、彼らだけが心の支えだった。
弟達を想わなかった時など、家を出てからの長い年月、一秒だってありはしなかった。
愛してる。ずっと弟達だけを愛していた。
すっかり大人になった弟達と再会した時も、あんな地獄の中でさえ嬉しくて────。
だから、自分は壊れてしまった。
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「うぅっ……!」
ズキン、と頭に刺すような痛みを覚え、あずさは崩れ落ちるようにその場に膝を突いた。
ズキンズキン、頭痛が止まず、蹲 ったまま頭を抱える。
苦痛の中でも思うのは、もうすぐ会えるはずの弟達のことばかりだ。
(はやく、いかなければ)
叱 咤 して立ち上がり、重い体を引きずるように歩みを進める。
(あいたい、かえりたい)
もうそれしか考えられない。
思い起こす様々な場面が『記憶』と食い違っていることすら気づけずに、あずさの思考と視野はどんどん狭まり、ただひとつの悲願に集約されていく。
(……おとうとたちに、あいたい……!)
やがて川沿いの土手に差し掛かった。
夕陽をうけて黄金に輝く水面 への斜面に、圧倒的な赤が広がっているのが目に入る。
あずさは思わず足を止めた。
それは彼岸花の群生だった。満開に咲き乱れる赤い花を前にして、あずさの目は驚愕にみるみる見開かれていく。
「あ……」
赤。一面の赤。
真っ赤なあれは、飛び散ってこの身を染める、あの“赤”は。
「あ、ああ、ああああああっ!」
突然、あずさは狂ったように叫び、頭をかきむしった。
痙攣する体を激しく捩る。ふらついた足を滑らせ、悲鳴を上げながら彼岸花の中へ転げ落ちると、その狂乱はさらに加速した。
「それは、それだけは嫌だと言ったのに! 言ったのにぃ!」
でたらめに蹴り上げた足が、か細い茎を折り散らす。花が散る。散り乱れる。
喉から血が出るような金切り声を上げるあずさの上に、折れた赤い花が降り注ぐ。
血走った目が極限まで見開かれ、獣じみた咆 吼 が茜色の空に響き渡った。
声を聞きつけた人々が土手の上に集まってきていた。
花の中で暴れる狂人があずさだと気づいた者もいて、今邑様に知らせろ! と焦る声が上がる。
その人垣をかき分け、土手を滑り降りる男があった。
「あずさっ!」
あずさを花の中から助け起こしたのは、他の集落へ出かけているはずの霜月だ。
最早人とは思えない声を上げて狂うあずさを、驚きと、そして悲痛な表情で腕の中に抱える。
霜月には、あずさの頭の中で起きた狂嵐が瞬時に解ってしまった。でたらめに暴れる体を抱き締めて、懸命に落ち着かせようと声をかける。呼びかける。届かない叫びを上げ続ける。
「あずさ、戻ってこい! 『そっち』から逃げていい。俺達がずっと守るから! 戻ってこい……戻ってきてくれ……っ!」
くしゃりと歪ませた顔は、あずさを嬲っていた残忍な雄とはまるで違う、庇 護 を請 い求める幼子のようだった。
やがて、嗚 咽 を漏らす霜月と、体力が尽きたのかその腕の中で気を失ったあずさを、土手の上から眺める男があった。
「私たちの『家』に帰ろう……“兄上”」
あずさと、霜月に──兄と、本当の名前を捨ててしまった弟へそう呟いて、「葉月」と名乗っていた男は、そっと哀しみに目を閉じた。
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