168 / 168
第175話
「四月から〝さん付け〟で苗字を呼んでもいいですか」
「かまわないよ。特別にタメ口も許す」
それはさすがに、と頭を搔くさまに、愛しいという気体が詰まった風船がどんどん膨らんでいく。
校内でそんな行為に及ぶのは不謹慎で、しかも運悪く誰かが来合わせたら馘 が飛びかねない。だが、こうしたい、こうせずにはいられない。
三枝は、身長差を補うために伸びあがった。そして花に止まった蝶のように、白い歯がこぼれる唇を優しくついばむ。
産毛が吐息にそよいで、くすぐったい。朱唇がアップで迫ったかと思えば、すぐに離れていった。
矢木は、およそ一分間にわたってフリーズしていた。やわらかな感触が消え残る唇を指でそっとなぞるにつれて、心臓が破裂しそうなくらい鼓動が速まる。
「ファ、ファース……キ、キ、キ……っ!」
これは果たして夢か現 か。さっきとは反対の頬を力一杯つねってみた。
「可哀想に、頬が赤くなって腫れてるじゃないか」
呆れた口ぶりとは裏腹に、瞬く間に耳たぶまで桜色に染まっていく。
矢木は頭を抱えて、しゃがんだ。ファーストキスという記念すべき瞬間に、ぼさっと突っ立ったきりとは、なんたる不覚。
神さま、後生だ。時間を巻き戻してくださぁあいいいいいいいいい……っ!
と、胸を搔きむしりながら天を仰ぐさまに苦笑をひとつ、三枝がふだんの授業スタイルそのまま、教卓に手をついた。
「今年度最後の、そして特別な授業をはじめます。万葉集の昔から恋を主題にした文学作品が星の数ほどある理由を、きみとおれを生きた教材に考えていきたいと思います」
矢木は、いそいそと席に着いた。ふたりの歴史は、この教室を出発点に作られていく。では、その一ページ目を記そう。
どこからかフリージアの清 やかな香りが漂ってきた。
春の序曲を奏でるように、カーテンがそよそよと揺れる。
──了──
ともだちにシェアしよう!