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第175話

「四月から〝さん付け〟で苗字を呼んでもいいですか」 「かまわないよ。特別にタメ口も許す」  それはさすがに、と頭を搔くさまに、愛しいという気体が詰まった風船がどんどん膨らんでいく。  校内でそんな行為に及ぶのは不謹慎で、しかも運悪く誰かが来合わせたら(くび)が飛びかねない。だが、こうしたい、こうせずにはいられない。  三枝は、身長差を補うために伸びあがった。そして花に止まった蝶のように、白い歯がこぼれる唇を優しくついばむ。    産毛が吐息にそよいで、くすぐったい。朱唇がアップで迫ったかと思えば、すぐに離れていった。  矢木は、およそ一分間にわたってフリーズしていた。やわらかな感触が消え残る唇を指でそっとなぞるにつれて、心臓が破裂しそうなくらい鼓動が速まる。 「ファ、ファース……キ、キ、キ……っ!」  これは果たして夢か(うつつ)か。さっきとは反対の頬を力一杯つねってみた。 「可哀想に、頬が赤くなって腫れてるじゃないか」  呆れた口ぶりとは裏腹に、瞬く間に耳たぶまで桜色に染まっていく。  矢木は頭を抱えて、しゃがんだ。ファーストキスという記念すべき瞬間に、ぼさっと突っ立ったきりとは、なんたる不覚。  神さま、後生だ。時間を巻き戻してくださぁあいいいいいいいいい……っ!  と、胸を搔きむしりながら天を仰ぐさまに苦笑をひとつ、三枝がふだんの授業スタイルそのまま、教卓に手をついた。 「今年度最後の、そして特別な授業をはじめます。万葉集の昔から恋を主題にした文学作品が星の数ほどある理由を、きみとおれを生きた教材に考えていきたいと思います」  矢木は、いそいそと席に着いた。ふたりの歴史は、この教室を出発点に作られていく。では、その一ページ目を記そう。  どこからかフリージアの(すが)やかな香りが漂ってきた。  春の序曲を奏でるように、カーテンがそよそよと揺れる。     ──了──

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