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第1話

なゆぎにはずっと家族がいなかった。 両親はどこかで生きているのかもしれなかったが、なゆぎがごく幼い頃から連絡が取れない状態だった。両親は自分たちが姿を消す前、祖母になゆぎを預けていった。親戚たちの、借金があって遠くへ逃げたらしいなどという曖昧な噂だけはあったが、彼らも祖母も――正確な事情は知らないままなのだった。 なゆぎがまだ幼い時分、世話をしてくれていた祖母が体を壊して入院し、やがて亡くなった。それ以降は遠い親戚や色々な預け先を点々としながら暮らしたので、なゆぎは家族の記憶が持てなかった。家族――それはなゆぎにとって、けして手の届かない憧れのものなのだった。 十六歳になったばかりの時、とうとう行く所が尽きてしまい、なゆぎは身寄りのない子供たちが預けられる施設に入れられた。 同じような境遇の子供らとそこでしばらく過ごしていたある日――施設長から、なゆぎを引き取りたいと言う人達がいると伝えられた。 そうして引き合わされたのは、若い――年は二十四、五ほどだろうか、物静かな雰囲気の、柔らかい声で話す整った身なりの男性だった。 繊細な顔立ちをし、少し長めの髪は乱れなく撫で付けられている――上品な人だ、となゆぎは思った。名前は聖と書いてひじり、と読むのだそうだ。母親はいないが、彼の父親がなゆぎを養子に引き取りたいと言っているらしい。 施設長がなゆぎに、聖の家は非常に裕福だから何も不自由はないし、なゆぎもこれからは家族ができて幸せになれる、と嬉しそうに伝えた。なゆぎは、それではこの人が自分の兄になるのだろうか、と目の前で穏やかに微笑んでいる聖の顔を見ながら考えた――実感は全然わかないけれど――もしかしてはじめて自分にも、お兄さん、とかお父さん、だとか呼べる相手ができるのだろうか?そんなふうに想像したら、気持ちが少し高揚した。 数日後――施設長に言われ、なゆぎは大して無い自分の荷物をまとめて施設の入り口でぼんやり迎えが来るのを待っていた――ここを出るという実感がまだ無いのだった。周りには、施設でなゆぎと気が合って仲良くしていた子供たちと、世話をしていた職員が一緒に待ってくれていた。 迎えの車が現われるとそれが――なゆぎたちは見たことも無いような、大きくてピカピカに磨き上げられた立派なものだったので、子供たちは口々にすげえすげえとささやいていた。なゆぎはもちろん、職員達も驚いている。 光る車は滑るようになゆぎの前まで来て停まった。と、聖が、後部座席から降りてきて、集まっていた人達に丁寧に頭を下げて挨拶してから、なゆぎを車に乗せてくれた。 聖にいざなわれて車に乗り、シートに腰掛けたなゆぎは、その座り心地の良さにびっくりした。施設の周りは砂利道で、相当でこぼこなはずなのに座席にまったく振動が伝わらない――きっとすごく高い車なのだろう、となゆぎは思った。裕福な家だというのは本当らしい。だけど、そんな立派な人達がなぜ自分を引き取りたいなどと思ったのだろう? 運転しているのは聖と同世代くらいに見える眼鏡をかけた短髪の青年で、自分は(いおり)と言って、聖の家のことをいろいろ手伝ってる書生のようなものだ、なゆぎの世話も任せられている、と自己紹介した。 なゆぎは車の中で、隣に座る聖の端整な横顔をこっそり眺めていた。この人が、ほんとに自分の家族になってくれるのだろうか? 聖は、なゆぎが彼を気にしているのに気付いたらしくこちらを向いて微笑んだ。優しい笑顔だった。それを見たときなゆぎの胸に、今まで感じた事の無い、暖かく安心できる気持ちが広がった――父親になるという人にはまだ会っていないけれど、この人の親ならきっと優しいに違いない、とそう感じた。 車は随分長く高速道路を走っている。そのうち周りの景色が緑と山ばかりになった。こんなに長く車に乗せてもらったのが初めてだったなゆぎには何もかもが楽しく思え、当たり前の景色であってもまったく見飽きなかった。 日が傾きかけた頃、車は高速を降りて町中を走り出した。田畑の中に民家が点在する地域を抜け、さらに山へ近づいていく。 今では正面に、さほど大きくはないが、均整の取れたとても美しい――なゆぎにはそう感じられた――姿をした山がそびえ立っていた。空に広がる鮮やかなオレンジ色の夕焼けが、濃い藍色の山のシルエットを際立たせていて、なゆぎはその眺めに思わず見惚れ、心惹かれた――車はまっすぐその山へと向かっていく。 そのうち、古く威厳のある大きな山門のような物が見え、車はそれをくぐりぬけて綺麗に整えられた日本庭園のようなところに入った――その先に立派な屋敷がある。 左右に広がった瓦屋根に、黒く塗られた柱。真っ白な漆喰の壁が美しい。旅館みたいだ、と、前に旅館の経営者に一時期預けられ、そこで下働きに使われていたことのあるなゆぎは思った。 車は玄関の前に停まり、なゆぎと聖を降ろすとまた走りだした。庵がどこかに駐車してくるのだろう。 聖はなゆぎの荷物を持ってくれ、開け放ってある玄関の中へ案内した。玄関もなんだか旅館のようで、三和土(たたき)には石が敷かれ、上がり框の向こうには大きな屏風が立てられている。屏風には美しい天女が数人描かれていて、なゆぎに向かって微笑みながら優しく手を差し伸べていた。生きてるみたいだ――天女達を横目で眺めながらなゆぎは聖のあとを付いて行った。 よく磨かれた廊下を奥に進む。廊下は池のある中庭に沿って巡り――やがて聖が一つの襖の前で立ち止まった。中に向かって声をかける。 「お父さん、なゆぎ君を連れてきましたよ」 襖を開けると、広い座敷の中に重そうで大きな木の座卓が置いてあり、その前に和服姿の男の人が座っていた。本を読んでいたようだったがなゆぎ達が入っていくと顔を上げ、聖に良く似た穏やかな顔で微笑んだ。 白髪はあるが、なゆぎが想像していたよりもずっと若い。ちゃんと挨拶しようと思っていたのに、急に恥ずかしくなり、言葉が出てこなくなってしまってなゆぎは黙ったままその人に向かってただ頭を下げた。 「長いこと車に乗って疲れたろう。座って休むといい」 優しくそう促されて2人は座卓についた。いつの間にか庵が来ていて三人にお茶を出してくれた。 なゆぎはのどが乾いていたので 「いただきます」 とできるだけ丁寧に一礼して茶碗を手に取った。それを見て聖が感心したように 「しっかりしてるね……苦労したんだろう」 と言う。 「これからここが君のうちだから。必要な物は何でも揃えるから、遠慮しないで僕か庵に言ってね……」 「ありがとうございます」 なゆぎは感謝しながらまた頭を下げた。 聖の父は幽玄といった。なんだか日本画家のような名前だ。もしかしたらそうなのかもしれない。廊下や部屋のあちこちに綺麗な日本画が飾られていたし。玄関のきれいな天女様の絵もこの人が描いたのではないだろうか――ふとそんな気がしてなゆぎは色々訊いてみたくなったが、初対面なので遠慮した。 それから、幽玄と聖に訊かれるままに、なゆぎは今までの暮らしのことを話した。中学はなんとか出たけれど、高校には行っていないこと、いろんな人達の家を転々としたこと、両親と別れたときのこと――祖母に預けたなゆぎにむかって彼らは時々振り返って手を振りながらだんだん遠ざかって小さくなって行き、今では顔も思い出せない――そんなことを。 幽玄と聖は黙って聞いて、なゆぎが話し終わると、聖が 「これから僕らが君の家族だから。最初はお互い照れくさいかもしれないけど……早く慣れて、お父さん、お兄さんって呼んでほしいな」 と言ってくれた。なゆぎは嬉しくなって頬を赤くし、また丁寧に頭を下げて礼を言った。 その後なゆぎが使っていいという部屋へ案内された。ここも大きな座敷だった。障子を開けると縁側を挟んで庭がある。辺りはすっかり暗くなっていて、整えられた植木のはるか上に丸い月が見えた。月明かりに照らされた庭は静かで美しかった。 じき夕食に呼ばれてさっきの座敷に戻ると、旅館で出す食事のように綺麗に盛り付けられた皿が並んでいる。それらはみんな、今まで食べたことがないくらい美味しいものばかりだったので、なゆぎはつい夢中になってたくさん食べた。幽玄と聖は楽しそうに日本酒の杯を傾けながら、そんななゆぎを見つめていた。 そのあと風呂を勧められて入りに行った。案内してくれる庵について浴室へ行くと、ここもやはり旅館のようで、大きな檜の湯船になみなみと透き通った湯が溢れている。温泉が湧くのだそうだ。こんな素晴らしい家に――これからずっと住めるのだろうか?なゆぎは半分信じられないような心地で湯船に浸かって身体を暖めた。 お湯は柔らかく微かにふわりと植物のような……いい匂いがした。

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