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第3話

扉が閉められ暗くなった中で、なゆぎはぎゅっと寝間着の両膝を抱え、顔を伏せて啜り泣いた。 ――聖はこの家には女性が入れられないと言っていた。では……なゆぎは彼の慰みものにされるために引き取られただけで、それは自分でなくとも誰でもよかったのだろうか?幽玄も同じに思ってるのだろうか?そうだとしたら……悲しすぎる。二人に大事にしてもらっているとばかり思い込んで、はしゃいでいた自分がみじめで仕方なかった。 今までどの家に行っても、死んだ祖母以外になゆぎのことを本当に気にかけてくれる人はいなかった。みんなそれぞれ自分の家族があって、なゆぎは常に余所者だった。でもそんな寂しい状態にも慣れ、やっと、誰にも愛されなくとも独りでなんとか生きていける、そんな風にあきらめがついた所に聖達が現われたのだ。 今度こそ自分を家族と思ってくれる人達ができたんだと思ってすごく嬉しかったのに……そうじゃなかった。やっぱり自分なんかを本当に好きになってくれる人なんかいやしないんだ……期待した自分はなんて馬鹿だったんだろう……そう考えると寂しくて、情けなくて、涙が後からこぼれだしてきて止まらなかった。 しゃくりあげながら見回すと、暗さに目が慣れたのか辺りの様子がわかってきた。太い格子の外にさっきの閂のある扉が見える。あとは漆喰の白壁だった。座敷牢の隅には衝立があり、その奥が(かわや)になってるようだった。 衝立の前に夜具が畳まれて重ねられている。ちゃんと人を閉じ込めておけるようになってるんだ、となゆぎはぼんやり思った。ここにいつまで入れられるんだろう……もう出してもらえないのかもしれない。 絶望的な気持ちになって思わず唇を噛むと、微かに血の味が残っていた。聖の血だ。唇から血が出ていた……わざと噛んだと思われただろうか。どの位深く傷を付けてしまっただろう。痛かったに違いない…… あの時何も言わずただじっとなゆぎを見つめていた聖の顔を思い出し、また悲しくなった。 重ねられていた夜具を引っ張り出してきて横になった。布団をかぶって、このままもう……自分は死ぬまでひとりぼっちなのだろうか、と考えた。今までも――具合が悪かったり辛かったりした時、自分はきっと――誰にも顧みられないままで死んでいくんだと感じたことが何度もあったから、こんな風な心細い気持ちは初めてではない……だけど聖と幽玄にあんなに優しくしてもらった後では――そのことが一層辛く感じられる。寂しくてたまらなくなりまた涙が溢れてきてしまったので、なゆぎは枕に顔を押し付け声を殺して泣いた。 ――大分時間が経った気がするが、窓がないここでは今が朝なのか夜なのかよくわからない。ずっと薄ぼんやりと暗くて、なゆぎはなんだか自分の身体がこの薄闇の中に溶けて消えていってしまうような――頼りなく不安な気持ちに襲われた。 ふと、部屋の中で微かな――ほんの微かな物音がした。 布団を少し持ち上げて隙間から覗くと白い漆喰の壁が見える。その前に半分透き通った、脛から下の、子供の物のような細い裸足の脚だけが――二本立っていた。 夢を見てるのか。 そう思ってなゆぎは脚を見つめたまま、じっと動かずにいた。 脚はさらさらと畳を擦るかすかな音を立てて歩き出し、なゆぎの視界から外れていった。起き上がって布団から出、脚が歩いて行った方を見てみたが、薄闇がひろがっているだけでそこには誰もいなかった……。 なゆぎが布団の上に起き上がって膝を抱えて座っていると、閂がはずされる音がして扉が開き、盆を手にした庵が入ってきた。食事を持ってきたらしい。庵の後ろから日の光が差し込んでいる。では今はもう朝なのだろうか、そう思いながらなゆぎは動かず、黙ってじっと庵を見ていた。庵はなゆぎの方は見ずに俯いたまま、格子の下に一箇所開いた隙間から食事の乗った盆を静かにすべらせて差し入れると、何も言わずに出て行った。扉が閉められ、また辺りが暗くなった。 お腹は全然すいていなかった。 けれど何も食べないのはせっかく食事を運んできてくれた庵に申し訳ない気がして、なゆぎは吸い物の碗に口をつけた。焼き魚を少しつつきお茶を飲み干すと、庵が盆を入れていった隙間から格子の外に押して返し、布団に戻って寝そべった。閉じ込められていることに怒りは感じなかった。ただとても……寂しかった。 眠る気にもならず薄く墨を流したような闇を見つめていると、なにかが側にいるような気配がしてきた。 やがてなゆぎの視線の先の、闇の濃い部分があちらこちらに飛び跳ね出し、だんだんと形になってきた。それはなんだか……頭に小さな角がある小鬼のような姿に見える。その小鬼は手脚を交互にちょこまかと振りあげ、おどけた仕草を作りながら踊り始めた。なゆぎが少し笑顔になってそれを目で追っていると、楽しげに跳ねていた小さな影はひょんとはじけて消えた。次いで、壁の中から微かな歌とともに鞠をつくような軽快な音が聞こえ、一緒に明るい子供の笑い声もした。やがて、前に聞いたさらさらという軽い音が近づいてきた。また脚が見えるかと思って目を凝らしたが、今度は音だけで何も現われなかった。そのうち小さな小さな音で、可愛らしいお囃子の太鼓のような音がしはじめたのでなゆぎはそれを夢中になって聴いた――全部夢か、それとも気のせいかもしれない。 気づけば辺りはしんと静まり返っている。でも、最初ここへ入れられたときのように怖くはなかった。あのみじめで悲しい気持ちも消えていた。なにかにくるまれているように体のまわりが温かい……なんだかさっきの小さなものたちが、今もなゆぎを慰めてくれているような気がする――ここは神々の山だと聖が言っていたから、中にはああいう小さい神様もいるのかもしれない。そう思うと不思議と気分が落ち着いた。 いつの間にか眠ってしまったようで、目が覚めるとまた新しい食事の盆が差し入れられていた。 庵がなゆぎの眠ってる間に来たのだろう。 今度は空腹だったので、盆を手元に引き寄せて食事を口に運びながら、なゆぎはまたあの小さなもの達が現われないかと耳を澄ませ薄闇を見つめていた。するとやがて、辺りにふんわりと暖かい気配が流れてきて、昨日と同じさらさらという微かな音がし出した。それは厠のある衝立の向こう側から聞こえてきたようだったので、なゆぎは箸を止め期待しながらそちらをじっと見た。すると衝立の陰から小さな掌が現われ、こちらの気を引くようにひらひらと揺れた。 掌はじき二つになると、組み合わさっていろいろな形を作り始めた。影絵でよく見るものだった。鶴になったり、きつねになったり、土瓶になったり……しばらく戯れるように色々な形をなゆぎに見せて、その手はやがて衝立の陰に引っ込んだ。 なゆぎはしばらく待ったが、掌は再び現われてはこなかったので、また食べ始めた。食べ終わって格子の隙間から盆を押し出していると、閂が外される音がした。 庵が盆を下げに来たのだろうか。そう思って見ていると、扉を開けたのは聖だった。聖は牢の格子に近づくと、鍵を開け、なゆぎに小さく手招きをした。 出ていいんだろうか。 なゆぎが牢から出ると、聖は視線を落とし 「ひどいことしてごめんね」 と悲しげな声でぽつりと言った。 そうして廊下を戻る道すがら――また美しい月夜がきていた――聖はなゆぎに話しはじめた。 聖はなゆぎを長いこと……探し求めていたのだと言う。 なゆぎの存在を知っていたわけではないが、どこかに必ず、山の大神に拒否されず……そうして自分が心底愛せる相手がきっといるに違いない。そう信じて探し続けた。なかなかみつからなくて何度もあきらめかけたが、なゆぎの名を聞いたとき、ああこの子に違いない、とぴんと来たと言う。 あのとき……月明かりの中で目の前に座っているなゆぎの姿を見たら、本当にとうとう会えたんだ、そう思って急に自分が抑えられなくなり、ついあんなことをしてしまった……そしてそれに驚いたなゆぎが家から逃げ出した時、どうしても……どうしてもなゆぎを失いたくなくて思わず庵に命じ、閉じ込めさせてしまったのだと話した。 罪悪感にさいなまれて聖は自分では様子を見に来ることができなかった。なゆぎはどうしているか庵に尋ねると、泣きも暴れもせず牢でおとなしくしてると言ったという。聖はそれを聞き、暗い中ぽつんとただ一人でいるなゆぎのことを思い……可哀想で、申し訳なくて……たまらない気持ちになったと言った。 あの部屋は神々の山の中腹をくりぬいて作られていて、胎内に収まるような位置にある。その薄闇の中にじっとしているなゆぎは、丁度この山に抱かれているようだったと庵はそうも話したという。聖は山の神達にも……なゆぎを閉じ込めた自分の身勝手さを責められている気がして辛かったと言う。 「きっとすごく……怖かったよね。ごめんね」 聖があんまり悲しそうに謝るのでなゆぎは彼を慰めたくなり、かぶりを振って 「怖くなかったです。ひとりじゃなかったから」 と答え、闇の中で見た小さいものたちのことを話した。すると聖は目を見開いた。 「そうだったんだ……それ、僕も見たことあるよ」 聖はまだ幼いとき、突然両親が離婚してわけもわからないまま父に連れられここへ越してきた。その後はずっとこの広大な屋敷に父と二人きりで、友達もおらず、恐ろしくて寂しくて、いつも泣いて過ごしていたのだといった。そんな時なゆぎが見たような小さなものたちが聖の前に現れ、慰めてくれたのだそうだ。 「手で影絵の形をやってくれましたよね」 なゆぎが言うと 「うん、こういうのだよね」 と聖は微笑み、器用に両手であのちいさな手と同じ形を作って見せた。 その後聖はなゆぎを部屋に連れて行き、ここを出て行きたかったら出て行ってかまわないと言った。あげたものも全部持っていっていいし、お金も必要なだけ渡す。なゆぎをちゃんと引き取ってくれる人も見つけるから、この後の生活の事は心配しないでいい――そうして部屋から出て行こうとした。なゆぎはその聖の手を握って引き止め、顔を見上げた。 下唇の端に薄く傷が残っている。 なゆぎは伸び上がってそっとその傷に口付けた。そうして 「ごめんなさい。これ、わざとやったんじゃないんです」 と聖に言った。 月明かりが――静かにそんな二人の姿を照らし出していた。 その後小さな足音が、楽しげな調子でさらさらとやさしい音を響かせながら、長い廊下を遠ざかっていった―― +++終わり+++

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