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燻蒸

  玄関の靴箱の上。  キーフックに黒い犬のキーホルダーが掛かる。それが合図。夜に地獄の犬が現れて無垢な罪に制裁を下す。それは決まって金曜日の夜…兄の帰宅がいつもより遅くなる日。犬が来るようになったのが先か、兄がなかなか帰って来なくなったのが先か…もう今は思い出せない。靴を脱ぐのに靴箱に手をかけた。チャリ、と金具の音がする。この週末も黒い犬がこちらを見ている。こちらを見ながら揺れている。  ハンバーグ、エビフライ、チキンライス。付け合わせのフライドポテトにニンジンのグラッセ、真っ先に端に避けたのは茹でたブロッコリー。デザートのプリンが待ちきれなくて手に持ったまま離さない。  弟の前に置かれたお子さまランチの中身を今も鮮明に覚えている。着なれない正装をして緊張しながら面会したのは、母の恋人だった。  母のお腹のなかに弟が宿っている時に、実の父は亡くなった。父は元々体の強い人ではなかった、と母は話していた。無我夢中で働きすぎて呆気なく過労死した父との記憶はずっと朧気で、母が毎日のように覗き込んでは指で撫でていた写真立ての中の笑顔ばかりが脳裏に刻まれていた。  未だに親というものの存在はよく分からない。母は優しかったが、男が側に居ないとダメな人だったと思う。実父が亡くなってからすっかり塞ぎ込んで、なにも出来なくなった。弟が産まれてからも暫くはその状態で、母方の祖母が面倒を見てくれていた。  弟が三歳になる頃、今の父と出会うことになる。まだ幼く無邪気な弟は、その場の状況など理解できるはずもなく、今まで見たこともないお子さまランチを振る舞われ上機嫌だった。  母はその男にすっかり骨抜きにされているようで、弟が拙い手つきでチキンライスを散らしている事にも気付かずに男に笑いかけていた。俺はというと、その男がこちらに向ける視線が嫌だった。弟や俺を見据える高い位置からの視線は、なぜかとても不快に感じられた。特に男はその会食の間、一度も母を見やることなく俺と弟をじっと観察していた。俺が弟の世話を焼くのを楽しげに見つめていたのだった。顔を合わせぬ様に背を向けたというのに、背後にも感じる男の視線に寒気がした。嫌な予感を感じ取った俺は家に帰って早々に祖母に相談するも、母は既に男の言いなりのようで、制止する祖母を払いのけ、嫌がる俺と弟を引きずってすぐに男の元へ強行した。  母が生きている間は男と深く関わらぬよう、母を盾にすることで避けながら暮らすことが出来た。男は、俺が互いの関係に一方的に築いた境界線を巧みに察して、気持ち悪いくらいにこちらに合わせてくる。弟も成長するにつれて俺と男の間の境界線に気づくようになり、俺に習うようにして自然と男を避けた。母だけが何も気付かず一人だけ浮かれたまま、男にだけ執心し続け九年後に病気で亡くなった。男に手厚く看取られ、幸せなまま死んでいった。男は、母を愛していないわけではなかったのだろう。むしろ愛しすぎていたのか、そんな風にも思えた。男の感情や思いを理解することは出来ない。俺と男は平行線のまま交わることはないからだ。母の死に対しても俺の心は自覚する程冷めていて、喪に服していた間の事はよく思い出せない。  俺はその時、高校受験を経てスタートした慣れない学校生活の真っ只中だった。受験の間も入学してからも慌ただしく、忙しい毎日だった。男は全く学費を惜しむことなく、血の繋がりのない俺と弟を名門校に入学させた。男は俺たち兄弟に対し、勉学に関してだけは異様に厳しかった。幼い頃から今まで、毎日机に向かわされる。一日たりともそうしなかった日はない。それほど努力しても、学力だけはどうやっても敵わない。男は、恐ろしく頭のいい人間だった。当然のようにレベルの高い学校に進学させられ、勉強漬けの日々を送る。弟もまた、中学受験を受けることとなり、俺と同じような道を辿ることになっていた。三人、同じ屋根の下に住みながら殆ど顔を合わせることなく月日が過ぎたのだった。  異変に気づいたのは初夏の頃だった。 衣替えの日が待ち遠しく感じるほど、気温が高い日が増えていた。世の学生達はようやく長袖を脱げる、と歓喜するはずだというのにその衣替えの日を数週間過ぎても弟は長袖のままだった。一週間の間に溜まった洗濯物を、仕分けするときに気付いた。それだけではなく、弟が制服の下に着ているであろうTシャツの背の部分に時折僅かに血が滲んでいる事があった。どこか怪我をしているのかひどく心配になる。そういえば、ここ暫く弟とまともに話をしていない。この変化が些細なことなのか、深刻なことなのか、全く察しがつかない。改めて思い返してみると、ここ暫く弟は俺を避けるように振舞っていたのではないかと気付く。  男の言いつけである夜の自主勉強の時間もそこそこに、俺は弟の部屋の扉をノックした。今日こそは話を聞かねばならない。この夜はなぜかそんな使命感に駆られていた。何度ノックをしても弟の反応はない。俺はしびれを切らして部屋の扉を開けてしまった。  机の上のデスクライトは点いたまま、勉強の途中という状態で、弟の姿だけがそこにはなかった。弟を探して俺は家の中をまわる。トイレにもキッチンにもリビングにも弟の気配はない。玄関を探ってみたが靴はある。家の中にはいるのだろう。この家で他に探せる場所はバスルームと、あの男の部屋だけだ。バスルームには明かりが灯っていない。  残るのは、家の奥の男の部屋のみ。 普段から男を避けている俺と弟は、その部屋に近づくこともしない。まさかそんな弟が、俺に何も言わずに男の部屋に入ることがあるなど思ってもみなかった。嫌な予感に満ちて足音を殺す。息を止めて部屋の前に身を寄せた。 「―――のために、……」 「分かっているだろう?」 「お前は―――だな」  男の声だけが微かに聞こえる。耳を澄まして中の様子を伺っていた俺は、その日の行動を、この先ずっと後悔することになる。弟がなぜこの部屋に入るようになったのか、その理由を知るのはそれから一年後のことだった。

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