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支燃

 朝目覚めて、一日を始めるのがとにかく気が重い。このまま永遠に布団の中から出ずに、眠っていられたらどれほどいいことか。スマートフォンの画面を確認すれば、アラームが鳴るまであと三十分もある。再び眠れる気はしない。起きがけに頭痛はするし、体中が痛んだ。  今日は土曜日。学校は休みだ。義父はいつもどおり出勤する。兄はどうするのだろう…。滅入りそうになりながら散らかった思考で考える。兄は、家にいるのか出かけるのか…それによって今日の自分の身の振り方が変わってくる。とにかく誰にも会いたくない…動きたくもない。  身を潜めることばかりを考えるようになってどれくらい経ったのか、もう思い出せない。人目につく事が怖くて仕方がなかった。自分以外の何者にも関わりたくない。  俺には、ある日突然否応無しに内に抱えてしまったものがある。それは、絶対に誰にも知られたくない事だった。決して外部には漏らせない、隠している事すら悟られてはならない秘密だ。それが、ふとした油断で溢れ出てしまうことがとても恐ろしくて恐ろしくて、当たり前だったはずの平穏な日常をすぐに見失った。気取られぬようにと偽りの平穏を保つことが、これほどまでに辛いことだとは、幼い俺は思いもしなかった。  然しこの現状を選択したのは自分自身であり、絶対に決壊などしてはならないのだ。自分という砦が崩れれば、抱えてしまった秘密が漏れ出してしまえば、自分の周りのものを巻き込んで全てが崩壊する。そう思い込んでいた。だから何があっても耐え忍ぶしかない。他の選択肢は、もう選べないところまで自分は来てしまっていた。  休日の過ごし方を考えあぐねながら、胸の奥に溜まりに溜まったどろついた鬱屈とストレスに溜息を漏らせば、急激に吐き気を催した。こらえられぬ嘔吐感に慌てて部屋を飛び出す。バタバタとトイレに駆け込むと、廊下の先でまだ家に居た兄と出くわす。慌ただしい俺に驚く兄に、何の対処も出来ぬまま便座に突っ伏して胃液を吐き出した。なかなか治まらない吐き気にみっともなくも咽いでいれば、傍らに兄が寄ってくる。  俺はぎょっとした。自分のこんな状態を、今一番見て欲しくない人物がすぐそばに居る。情けない姿を晒しているのが嫌で嫌で仕方ない。兄に心配だけはかけたくなかった。なのに何も抑えられない。頭痛も吐き気も、何故か勝手に湧いてくる涙も…。兄は静かに俺の肩を抱いた。然し、寝巻きが引きちぎれそうなほどに強く掴まれて抱き竦められる。吐き気を緩和しようと背中を摩る手が、俺の背の中心を避けていた。  兄はもう既に、俺が抱えた秘密を、隠し通したかったものが何かを知っている。たったこれだけの仕草で、突き付けられたように気付かされる。鈍器で後頭部を思いっきり殴打されたようなひどいショックを受けた。張り詰めていた神経は、ブツンと断裂し、目まぐるしい身体の不快感がなぜか遠のいていく。  兄はなぜ、どうやってこの秘密を知ったのか…。言葉を交わすこともないまま過ごした一年余り、俺が自分を隠そうとしてばかりいたその間に、兄はどうしていたのか…、全然分からない。俺は、自分の事で精一杯で、兄の事など全く見えていなかったのだと知り、ひたすらに悲しくなった。    金曜日の夜は兄が帰ってこない。 けれど土曜日には一日中家に兄が居て、必ず朝に俺の部屋を訪ねてくる。 「生きているか?」 「今日は何を食う?」 「買い物付き合わないか?」  兄からの何気ない声掛けをも、俺はずっとシャットアウトしてきた。兄はいつからか全てを知っていて、ずっと待っていたのだろう。俺が秘密に押し潰されて、屈するタイミングを。馬鹿な俺は、今頃ようやくそれに気付かされる。  いつ吐き気が治まったのか覚えていない。いつの間にかトイレからベッドに戻されていて、熱があったのだと耳元の氷枕の音で自覚した。兄はベッドの隣に座ってこちらを見つめている。何も話さなくても、言いたい事の全て伝わっている気がした。兄と俺は昔からこうだった。それすら見失っていた。  熱が引かずに、この日から俺は二週間寝込んだ。いつもに増して甲斐甲斐しい兄にすっかり甘えて、兄との接触を断っていた期間を埋めるように俺はグズグズに過ごした。兄も俺も学校にも行かずにずっと家にいて、何にも邪魔されることなく穏やかに過ごした。秘密を抱えながら送っていた悪夢のような日々は一体なんだったのだろうと思えるほど、俺は満たされた。  今日は一年ぶりに、二人で風呂に入ろうと兄に提案された。以前はよく節水のためだの、洗濯をまとめるためだのと言う兄と、ふざけあいながら共に風呂に入っていたのだ。その頃と変わらず、洗濯機に投げ入れながら服を脱ぐ兄に背を向けたまま、俺はシャツ一枚が脱げずに固まってしまう。  秘密の全てを兄が知っていたとしても、本当に直に曝け出してもいいものか。いざとなると躊躇でいっぱいになる。このシャツの下に、自分が隠していたかった事の全てが詰まっている。今でも出来ることならば、自分の存在ごと全部を抹消してしまいたいほど忌々しい隠し事だ。やっぱりどうしても見られたくはない。けれど、心苦しい環境から逃れたくて、ボーダーラインを踏み越えようとする自分にも抗えず、胸が締め付けられる。秘密を抱えていることに逐一耐えられない自分が、歯がゆくて悔しい。兄はどこまで受け入れてくれるのか、どうすれば軽蔑されずに済むのか、何も量れない。俺は、ひたすらに怖れを前にして揺れていた。何よりも、兄に嫌われたくなかった。ぐちゃぐちゃに混ざり合う気持ちのブレに翻弄され、決心がつかないまま足元に深く視線が落ちる。 「……痛むのか?」  背を向けたまま動かない俺に、しびれを切らした兄が訪ねてくる。 「………うん」  素直に返事をする。これが今は精一杯だった。兄の足元にポトリと雫が落ちるのが見えた。雫の正体を探る前に、そのままバスルームに入っていく兄を見送る。俺はバスルームの扉越しに兄と話をすることに決めた。まずは、他愛もないことから。少しずつ…。

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