3 / 7

燃焼

 奏介(そうすけ)には、しめやかというよりは事務的に過ぎ去ったように感じられていた。誰が葬儀の喪主を務めたのかも忘れてしまった。白と黒がチラチラと交差する葬式の間中、奏介は浩介(こうすけ)の様子ばかりが気になって、遺族としての自覚もないままにやり過ごしてしまっていた。弔問客もお決まりのセリフ以外の言葉は殆どなく、場を流しやすかった。全く面識のない親戚とやらが暫く忙しなく家に訪問してきていたが、いつしかそれも無くなった。静かになった家の中、やっと兄弟二人きりになれたと奏介は心から安堵していた。  四十九日が過ぎて、揃って通学を再開する。各自が部屋に篭っていたこれまでのような閉鎖的な生活はやめて、出来るだけ二人で顔を合わせ、身を寄せるようにして一日をリビングで過ごした。悠々自適すぎて自然と笑いが込み上げてしまう。互いにこんな幸せを噛み締められる日が来るとは思ってもみなかった。  あの男は死んだ。 ある日突然、なんともあっけなく。会社の帰り道に事故に遭ったのだという。道端を歩いていて、ふとした瞬間に車道に転げ出てしまった。そこを車に撥ねられたとの事だった。頭を強打しての即死という話だったが、死因の特定に何やら時間が掛かった。  訃報が届いてから誰がどう手配したのか理解する暇もなく葬儀が始まり、兄弟は蚊帳の外のまま勝手に身の回りが整理されていった。意外なことに、男の遺産はそのまま全て兄弟に相続された。そうなるように生前に男が処理していたのだと聞かされた。下世話な輩も居ることには居たが、男の身内だという数人の男女が、あの男にそっくりな振る舞いで言いくるめ、波風を立てることなく取りまとめて終わらせてくれたのだった。  あの男の支配は終わった。 それどころか何不自由ない生活が始まった。重く暗い家の中は大分クリアになったと思う。遺品の整理も既に済んでいる。あの男の部屋の中にはもう何もない。二人は徹底的に、家の中に残るあの男の痕跡を消した。奏介も浩介もそうしたかったからだ。大体の物は業者に頼んで処分してもらった。然し、どうしても安易に捨てることが出来なかった物がまだ家にある。それは、仏壇だった。母の位牌も納められたそこに、あの男の位牌も並んだ。  忌中が過ぎ、百箇日を終えた数日後、奏介は浩介に切り出した。共に風呂に入りたいと。これまでに何度も挑戦しようとして、失敗していた。奏介はシャツ一枚の壁を踏み越えられぬままでいたのだった。けれどまだ、諦めてはいなかった。誘いを受けると、脱衣所でいつもの通り浩介は奏介に背を向けて服を脱ぐ。 「浩介……」  その日、か細い声で奏介は浩介を呼んだ。ストンと足元に白いシャツが落ちる。一年以上も一切日に当たらずにいた白い背中にくすんだ紅色の痕がくっきりと浮かんでいる。  それはあの男が、二人に対して残酷に刻み付けた支配そのものだった。まだこんなにもはっきりとあれが存在した痕跡が残っている。そのまま奏介は背を丸めてしゃがみこんでしまった。  剥き出しになった傷痕を、浩介の視線の熱にジワジワと炙られているような気がして痛みを錯覚する。息苦しくなって気が動転しそうになる。ただシャツを脱いだだけだというのに動悸が止まらなかった。  布一枚のその下には、まだ生々しく鮮やかな深い火傷の痕が、奏介の背中一面に広げられていた。それを浩介に見せるという行為は、奏介にとってはあの男に対して未だ抱き続けている果てしない恐怖を浩介と共有する事を意味していた。その身に受け続けた耐えがたい苦痛は一ミリも消化される事無く、消したくても消えぬ鮮烈な記憶と共にこうして背中に刻まれ残っているのだ。  見られているだけなのに火傷が激しく痛みだす。突っ伏していると、あの男の恫喝がまだ耳の奥にこだましている。ここには浩介しかいないはずなのに…。  ガタガタと異常に震える奏介の腕を、浩介は強引に引き寄せて脱衣所を飛び出す。一心不乱に廊下を抜けると納戸に仕舞ってあった、子供時代の木製のバットを握りしめる。リビングで奏介の腕をようやく離すと、すぐ隣の和室に置かれていた仏壇の前に浩介は立ちはだかった。  凄まじい破壊音をあげながら、躊躇いなく浩介はバットを仏壇に向けて振り下ろす。何度も、何度も。位牌も遺影もメチャメチャに弾けて崩れていく。浩介はなおも手を止めず、仏壇自体を引き倒してバットが折れても破壊し続けた。目の前で起きている事への驚きで呆然としていた奏介も、何時しかストンと落ち着きを取り戻しその光景を見つめていた。込み上げていた激しい震えはすっかり止まっていたのだった。  ただの木片と成り果てたそれを、二人で箱に積める。床をきれいに掃除して灰の一つも残さない。ゴミになったものを、二人で川原に運んで人知れぬ夜中に火を点けた。  燃えていく様子をじっと眺めながらも奏介は背中が痛んだが、浩介はそんな弟の背を火が完全に鎮火するまで抱き締め続けた。炎が燃え尽きる頃にはもう夜が明けていた。

ともだちにシェアしよう!