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点火

 玄関の靴箱の上 キーフックに黒い犬のキーホルダーが掛かる。それが断罪の夜の始まりの合図。 「お前は頭がおかしい」  何度そう言われたことか…。 けれど奏介は言い返すことはできない。男は仕事が明ける金曜の夜には必ず部屋に来るようにと奏介に言いつけていた。  始まりは浩介が受験の真っ只中でひどく多忙な頃だった。難関校に挑むため、これまで以上にどっぷりと勉強漬けの日々を送る兄を静かに見守りながら、奏介は寂しさを感じていた。母が生きていた頃から兄弟の拠り所はお互いでしかなかった。奏介にとって浩介は兄でもあり親でもある。  忙しさ極まりない状況だということも、今この時が浩介の人生においてとても大事な時期だということも分かっていた。邪魔をしてはいけない、健気な距離感を奏介はきちんと保っていた。それ故に寂しさは日に日に募っていた。  奏介が浩介に強く焦がれる切なさは、実は身内への感情だけではなかった。それに本人が気づいたのもちょうどその頃で、思春期真っ只中の不安定な感覚をどうしていいか分からず、しかし浩介に相談すら出来ぬまま、複雑な心境を僅かに拗らせてしまっていた。持て余しきった若い欲求不満を、奏介は秘めやかに自慰で始末していた。それはその年頃の男子であるならば当たり前の行動だったはずだというのに、義理の父親は残酷にそれを罪として暴いた。  浩介へ抱く恋慕を拗らせ、日々の寂しさに耐えきれなくなった奏介は浩介の部屋で浩介の痕跡を探し、秘めた行為に耽っていた。その現場を偶然義父に見られてしまったことが事のきっかけだった。  兄に想いを馳せる弟の異常性を義父は徹底的に糾弾した。近親間で、あってはならぬことだ。当然の禁忌だった。それだけではなく、二人の間には性別の問題もあった。どうあっても到底許されることでは無かった。  義父はとにかく奏介を強く戒めた。しかし、奏介は何度諭されても浩介への想いを断つことには頷けなかった。断じて、それが罪であると認めることは出来ない。奏介にとって、これまでずっと自らを育み守ってきた浩介こそが自身の全てだったからだ。それを奪われてしまっては、自分が自分でいることが出来ない、そんな考えに至ってしまうほどなによりも深く浩介を愛していた。ただ、ひたすらに浩介が好きで好きで、それだけだというのになぜ許されないのか、なぜ他人に許されなければならないのか、奏介には理解が出来ず分かりたくもなかった。浩介の事を好きで居られぬ状況を作り上げようとしている義父を、奏介は激しく拒絶し反抗し続けた。  己に従わぬ奏介への義父からの懲罰は、加虐的にどんどんエスカレートしていく。然し、どんな罰を課せられても屈しまいと、奏介は苦痛が生じる度に浩介の名を呼んだ。痛みに打ち拉がれても、苦痛に喘いでも、義父の言葉は認めず、受け容れず、ひたすらに解放だけを求めて泣き続けた。何をどうしても諦めることの無い奏介に焦れて、忌々しくなっていく。義父は怒りを増幅させては悍ましく残酷になっていった。元々、支配欲の強い男だった。そういう素質の男なのだろう。  浩介が聞き耳を立てていたあの夜…男は浩介の存在を盾に取り、奏介を口汚く罵っていた。 「全て浩介にばらしてやろうか?その方が浩介のためになるかもしれないな」 「自分でも分かっているだろう?お前はとんだ変態だ。そんな風に浩介の前でもマラをしごいて見せたらいい」 「そんなお前の気色の悪い姿を、大好きなお兄ちゃんが見たらどんな顔をするか想像してみなさい…軽蔑という言葉を理解しているか?」  その日奏介は、人前での自慰行為を強いられた。浩介にバラすと脅され、激しい恥辱に塗れる罰を受けた。自ら心を殺しながら泣く泣く従ったというのに、理不尽にも激昂した義父に蹴りあげられて、また背中にアイロンを押し当てられた。  悪魔のようなこの男は、奏介をどこまでも追い込んでいく。自分が我慢の限界を迎えてしまえば矛先が兄に向かう。そう刷り込まれた奏介は、当初の目的をとうに越えた男の鬱屈の発散のために、ただただ凄惨な虐待に身を委ねるしか道はなかった。浩介を想い、守りたいがために自己を犠牲にする奏介の純粋な献身を、男はいとも容易く蹂躙した。  ジュウジュウと皮膚を焼くアイロンの熱の激痛に押し殺せなかった苦悶の悲鳴が溢れる。気が狂いそうな程に耐えきれないものを、それでも堪えるために奏介は浩介の姿を思い馳せる。 「浩介、浩介ぇ…」  泣いて呻いて掠れた奏介の声が、自分の名を呼ぶのを浩介は部屋の扉越しにしっかりと聞いていた。叫び出したいほどに爆発する感情と、せりあがる嗚咽を両手で押さえ込んで、自分の存在をひたすらに押し殺す。  あの男が、あの男が、弟を、奏介を壊した。奏介を穢していた。今にも発狂してしまいそうな破壊的な衝撃だった。心が焼かれ、焼き付き、死んでいく感覚を味合わされた。浩介はその日感じたもの全てを記憶に刻み込んだ。最早消す事など不可能だった。

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