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1♡⑧
帽子を目深に被ってスタジオの裏口から飛び出すと、急いで聖南に電話を掛けた。
甘い時を過ごした午前中が霞むくらい、午後からの時間が憂鬱で無我夢中だったから忘れてたんだ。
今日は聖南が晩御飯を作って待っていてくれる、めちゃくちゃレアな日だって事を…。
『葉璃?』
ほんのワンコールで出た聖南の優しい声に、目頭が熱くなった。
俺からの連絡を待ちわびて、手元にスマホを置いてたって事が分かるその素早い応答に、よくない甘えが噴出しそうになる。
何もかもぶちまけて「もう影武者ヤダ!」と言ってしまいたい。
───言えないけど。 言いたくても絶対に言っちゃダメだけど。
「聖南さんっ、遅くなってごめんなさい…! 今から帰ります!」
『お疲れ。 疲れたろ、乗って』
「乗っ…?」
『葉璃の斜め前、俺』
え…っ?
地面から顔を上げて通りの向こうを見ると、そこには見慣れた聖南の白い高級車がハザードをたいて路肩に停まっていた。
わぁ……迎えに来てくれたんだ…!
「聖南さん…っ」
これからタクシーを拾うか電車を使うかって悩んでたのに、まさか迎えに来てくれてるとは思わなかった。
今誰より会いたかった聖南に会える喜びで、俺は信号待ちさえ焦れて足踏みする。
信号が青に変わった瞬間に通りの向こうまで走って、助手席のドアを開けると勢いを付けて飛び乗った。
「お疲れ。 全速力かわい」
「……聖南さん…っ。 お疲れ様、です」
たった半日会わなかっただけで、眼鏡を掛けた恋人の笑顔にときめいてしまった。
すかさず、遅くなってごめんなさいと謝っても、「気にしてない」とほっぺたを撫でてくれた聖南は、運転中も笑顔を崩さなかった。
「どうだった? 初日練習は」
「………いい感じです。 ………みなさん優しいです」
「その間が気になんだけど」
「いえ、ほんとに。 そうだ…三宅講師が来ましたよ。 聖南さん達を教えてた先生ですよね?」
「あぁ、アイツうるせぇだろ」
「ふふっ…、確かにスパルタでした。 でも教え方は俺にはすごく合っていました。 今日だけで大まかには動けるようになったんですよ」
メンバーの話になるとついどもりそうになるから、三宅講師の話題を出して正解だった。
CROWNが結成される何年も前から三宅講師のレッスンを受けてたらしいから、その名を聞いただけで当時に戻った気持ちになるみたい。
余計な事を考えなくて済むように、俺は聖南の横顔を見詰めた。
「さすがだな。 Lilyのダンスは…なんつーのかな。 ポップとジャズ足して二で割ったみたいな複雑なステップだろ。 あれは俺みたいなでけぇ奴が踊るとカッコつかねぇんだよな。 完全に女性向けの独立したジャンルだ」
「……そうですね。 CROWNの振り付けを覚え始めた時と同じ感覚です、今」
「リリカルヒップホップとは難易度が違い過ぎるぞ」
「ううん、ケイタさんの振り付けは上下の動きがバラバラだからすっごく大変でした。 覚えてしまえば…ってとこはありますけど、覚えるまでの大変さはあんまり変わらないかも…」
「そういうもんか」
「はい…。 聖南さんのお家って防音ですよね?」
「あぁ、…てかもう葉璃の家でもあるだろ。 練習すんの?」
「いいですか? なるべく音立てないようにするので、出来れば…やりたいです」
無理だと諦めて何もしないでいるなんて出来ない。
全室防音とは限らないから、聖南の書斎(作曲部屋)に姿見鏡を持って行ってパソコンで動画を流しながら練習しよう。
明日は午前からLilyのみんなと会わなきゃいけないから、「家で練習して来なかったの」とか「片手間だからおざなりでいいと思ってるの」とか嫌味を言われたらかなわないもん。
「いいよ。 メシ食ったら練習見てやる」
「えっ? い、いいですよ! 聖南さんは寝てください!」
「嫌。 どっちにしろ葉璃が隣に居ないと俺眠れねぇから」
「………っ!」
大事な仕事、任務として見てくれるのかと思ったら、そんな理由だなんて…。
嬉しいけど、申し訳ない。 でも……やっぱり嬉しい。
聖南に会うと重たかった心がスーッと軽くなるから不思議だ。
「葉璃、腹減ってる?」
「あ……はい。 聖南さんと会ったらお腹空いてきました」
「昨日もそんな事言ってなかった? 俺って葉璃の空腹を刺激する作用があんのか」
「ふふふ…っ、そうかも…」
「それ、喜んでいいのか?」
屈託ない微笑みが、苦笑に変わった。
人差し指で眼鏡を上げる様に見惚れてしまった俺は、咄嗟に前方を向いてほっぺたを触る。
もちろん喜んでいいに決まってるよ。
聖南の顔を見ると、癒やされる声を聞くと、嫌な事を忘れてられる。
お腹が空くってそういう事だよね?
「今日はハンバーグと唐揚げだ」
「えっ? メインが二つありますけど」
「メシ五合炊いた」
「五合!? 多過ぎますよ!」
「スープはコンソメで野菜煮込んだ」
「……美味しそう…っ」
「俺の手料理久しぶりだろ。 残さず食えよ」
「残さない自信はありますけど…」
運転中も隙あらば頭を撫でてくれる温かい手のひらに、心が浄化されてくようだった。
あの思い出のペンションで作ってくれた、たらこパスタ以来の聖南の手料理。
俺が人より多く食べるからって、気合い入れて作ってくれたのがありありと分かる聖南の弾んだ声色は、鬱々としかけた俺の気分を見事に浮上させてくれた。
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