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 土曜の二十三時前。  大通りから少し脇道に入ったラジオ収録のスタジオ正面入り口前にはいつも、この深夜にも関わらず放送後は数十名のファンが出待ちをしている。  深夜の街中でパニックが起きるのを避けるべく、聖南達はスタジオと隣接するビルの立体駐車場に車を停めるので、葉璃を連れた聖南は裏口を早足で通り抜けた。  聖南は車に乗り込むなり、何も言わずに葉璃を一度強く抱き締めた。 それからエンジンをかけて車内を冷やすと、ごくごく自然に胸ポケットに引っ掛けていたサングラスを葉璃に手渡す。  葉璃はいつものように聖南からサングラスを受け取ると、ダッシュボードを開けて同じブランド名が書かれたケースにしまった。 「ありがと、葉璃」 「いえ、そんな……」  頭をわしゃわしゃと撫でて髪を乱すと、瞳をギュッと瞑って顔をやや上向きにした葉璃が分かりやすく照れた。 そしてじわりと聖南の手のひらを取り、自身の頬にすり寄せて甘える。  聖南はこれが見たかった。  二人の間には、誰も立ち入る事の出来ない世界がある。 流れるような聖南の動きを即座に理解し、一挙手一投足に頬を染め、聖南の事が大好きだと表情で溢れさせてくる葉璃を見なくては落ち着かなかった。  ……ルイが悪いわけではない。  状況が少しずつ変化していく事も、葉璃の視野がどんどんと広がっていく事も、出会ったばかりの頃にデビューの話があると語っていた時から、そんなもの聖南には簡単に想像がついた。  けれど思っていた以上に受け止めるのが難儀だ。  葉璃にとってよくない事態から遠ざけてやる事は簡単だが、緩やかに階段を上ろうとする葉璃の腕を取って行かせまいとするのは違う。  どんなにぐるぐるしても、ヤキモキしても、葉璃の望む成長に結び付くのならば、聖南にはひとまずは見守らなければならない義務がある。  先輩としてなら容易いが、近頃は恋人としての忍耐が試されている。 ……今も尚。 「───聖南さん、鳴ってます」 「ん、ちょっと待って」  肘掛けの上で仲良く手を繋いでぐるぐるを浄化していた聖南は、信号待ちにさしかかったところで葉璃から顔を覗き込まれた。  聖南のスラックスのポケットから小さな着信音が響いていて、仕事用のスマホを取り出すとそれは大音量になる。 「…………出ていい?」 「え?」 「レイチェルだ」 「……えっ? あっ……俺のイヤホン使ってください」  この時間なので必要ないだろうと、ワイヤレスイヤホンをBluetoothに繋いでいなかった聖南の耳元を見た葉璃が、スマホに自分のイヤホンを装着してくれた。  こういうのもすごくいい。  レイチェルから着信だと聞いて体を竦ませておいて、運転中の聖南のために出来る事はないかと気を利かせたのだ。 『あー好き。 かわいー。 好き。 大好き』 「聖南さん、切れちゃいますよ! 俺の顔はいつもと変わりませんからっ」 「かわいーなぁ、葉璃。 かわいー」 「は、早く出ないと!」  赤信号なのをいい事に葉璃への気持ちを垂れ流していた聖南は、笑顔を見せて「はいはい」と頷きつつも、スマホの画面を見ると少しばかり肩に力が入る。  何分、まったくもって不本意だが聖南を口撃にて怯ませたレイチェルの事が未だ苦手なのだ。 「……もしもし」 『セナさんですか。 お疲れ様です、レイチェルです』 「あぁ、どうした? 言っとくけどまだ曲は上がってねぇよ?」 『それは、すごく楽しみに待っています。 ラジオを聞きましたと、お伝えしたくて』 「あー……そう、ありがと」 『セナさん、恋人がいらっしゃるのですね?』 「あっ? ……まぁ、……居る。 世間にも公表してるけど」 『知りませんでした。 私、何だかとても寂しい気持ちです。 セナさんの幸せそうなお話を、羨ましいと思ってしまいました』 「ん、そっか。 寂しい気持ちで羨ましい、…………え?」  余計な事は言わないでくれと伝えておいた聖南だったが、大塚社長は律儀にそれを守ってくれていたらしい。  何やら思い詰めたような声色のレイチェルは、今しがたのラジオで聖南に恋人が居る事を知り連絡をしてきたという。  意味深過ぎる発言に、自宅マンションの地下駐車場で、光沢を放つ真っ白なSUV車が不自然に動きを止めた。  駐車しようとシフトレバーを握った手が止まり、かつ同時にブレーキを踏んで葉璃をチラと見る。 『セナさん……おじ様と三人で食事した翌日、お誕生日だったのでしょう? お祝いして差し上げたかったです』 「い、いや……レイチェル、ありがとう。 祝おうとしてくれた気持ちは嬉しい、ありがとな。 話はそれだけか?」 『……一日も早く、セナさんの創った曲を聴きたい……歌いたい……』 「分かった、なるべく早めに上げられるように俺も頑張るから。 じゃあな、お疲れっ」  自分本位に通話を終了させて、急いでイヤホンを外す。  葉璃がスマホごとイヤホンを受け取ってくれたので、とりあえず聖南は車を駐車させた。  レイチェルの声色や言葉は、怪しいどころではない。 あれは確実に意味を持たせていた。  聖南に恋人が居るなんて知らなかった。 寂しい気持ちになり、幸せそうな聖南の惚気話を羨ましいと思った、───それを聞いて「傷付いた」、と。 「………………」 「………………」  車から降りてエレベーターに乗り込む時も、家主である聖南は暗証番号を入れれば指一本で解錠できる扉を開けた時も、葉璃の横顔を窺ってみたが感情が読めない。  イヤホンをしていたからには、レイチェルとの会話は葉璃には聞こえていないはずだ。  しかし聖南は口を滑らせていた。  だがもしも聞かれていたからと言って、疚しい事は何もないのだが非常に気まずい事だけは確かだった。 「聖南さん、今日からマジで書斎にこもらないとですね」  玄関を抜け、二人は業界人としての癖で手洗いとイソジンでのうがいをすべく洗面所へ向かう。  交代でそれらを済ませた後、葉璃はふと聖南を振り返ってこう言った。  葉璃の視線はいつ何時でも聖南の胸を弾ませる。 今、微妙な気持ちでいる聖南には別の動揺も走ったが。 「えっ、あ、あぁ、うん。 だな」 「俺、絶対邪魔しませんから」  そう言って見上げてくる葉璃は、聖南が思わず息を呑むほど柔らかくふわりと微笑んだ。

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