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 一足先にシャワーを浴びに行った葉璃は、頑として聖南をそこに立ち入らせてくれなかった。  気まずさを引きずっている聖南もそこでは我儘は言わず、部屋着に着替えてから葉璃のためにカモミールティーを淹れた。  ティーカップを二つ用意し、自分用にも淹れる。  今落ち着かなければならないのは聖南の方だ。 「……葉璃……?」 「はい? あっ、紅茶淹れてくれたんですか、すみません。 ありがとうございます」  鮮やかな橙色のパーカーのみを着た葉璃が、濡れた髪を拭きながらリビングにやって来た。  ティーカップを手渡すと、「いい匂い…」と鼻を近付けてうっとり顔を見せる葉璃は、すらりと伸びた足を何とも無防備に聖南に晒し、無言の誘惑を仕掛けてくる。  入浴後で上気した頬と、大事そうに両手でティーカップを持つ様、危なげに艶っぽい中性的な顔立ち、聖南を射抜く視線……。  すぐにでも鼻血が出そうだった。 『やべぇ……かわいー……今すぐ押し倒してぇ……』  聖南の仕事の邪魔はしないとつい三十分前に断言されたため、絶対的に拒否されるだろうから襲いはしないがどうしてもムラムラはする。  カモミールティーを自分用にも淹れていて良かったと心底思いながら、じんわりとカップに唇を付ける葉璃を凝視した。 「葉璃、その……ぐるぐるしてねぇ?」 「え? してないですよ。 レイチェルさんとの事を言ってるんだったら、俺、聖南さんを信じてますし」 「そっか。 っつーか何にもないんだけどな。 レイチェルがいきなりあんな事言い出すから焦っただけで」 「あんな事って? ……まぁ、聖南さんとレイチェルさんはお似合いだと思いますよ。 今までのどの女性より、並んだら絵になります」 「はっ? おい、葉璃っ」  ティーカップを手にコーナーソファへと移動した葉璃を、慌てて追い掛けた。  ぐるぐるしてんじゃねぇか!と言いかけた聖南は、またもや不意打ちで向日葵のような笑顔を向けられる。 「ふふっ……。 冗談ですよ。 ね、こんな事言えちゃうんですから、ほんとにぐるぐるはしてません」  葉璃の笑顔や声音から、聖南が心配するほどの事もなさそうではある。  けれど、不安だ。  レイチェルからの意味深な電話が来る前、ルイと葉璃のイチャイチャを見せつけられた身としては、すぐに作曲に取り掛かるモチベーションになどなれない。 「葉璃ちゃん……。 なぁ、今日エッチする? てかしよ?」 「ダーメーでーすー。 作曲の目処が立つまで、アレは禁止です」 「なっ!? ゔぅぅぅ〜〜〜〜」 「ワンちゃんみたいですよ、聖南さん」 「だって……したい……」  レイチェルとの電話が引き金で、またもや禁止令が発令されてしまった。 唸りたくもなる。  葉璃に抱き付いて、これでもかと擦り寄って甘えていた聖南を優しく振りほどいた葉璃は、聖南が飲み干したティーカップを奪って立ち上がった。 「……カップ洗っておくので、聖南さんはお仕事頑張ってください。 レイチェルさんが待ってますよ」 「……分かった……頑張る。 頑張るからぎゅーして、ちゅーして」 「駄々っ子みたい」  いくらでも笑ってくれと、いじけた表情で葉璃に両腕を広げ待つ。  大きな子どもにおねだりされた葉璃は笑みを零し、仕方無しにティーカップをテーブルに置いて聖南を抱き締めた。  華奢な体を自身の体に押し付けて抱き締め返すと、苦しいと言いながら触れるだけのキスを二回くれたが、それだけで抑えなければならない唐突な「禁止令」が歯痒い。  ……と言っても、葉璃に従順な聖南は皿洗いを任せて、頑張ってとの激励通り書斎にこもった。  パソコンを立ち上げてヘッドホンを装着し、出来上がったイントロ部分のメロディーを電子ピアノで弾いて創作モードに入る。 『詞が浮かばねぇからAメロに繋げらんねぇ』  サビと大サビのメロディーは何となしに浮かんでいて、簡易的に弾いて別保存しているがいつものように肝心の言葉が紡げない。  天性の才能とやらがあればいいのにと、この仕事を引き受けてから聖南の悩みは尽きなかった。  王道のバラードとされる楽曲をいくつも聴いてみたけれど、聖南が創造したいとするものとはやや方向性が違うのだ。  とにかく、難しい。  ふっと湧く瞬間を意識して日々を過ごしていても、考えて出来るものではないので缶詰めになったところで作業スピードは上がらなかった。  成果の無いまま一時間ほど鍵盤と遊んでいた聖南は、シャワーを浴びてコーヒーでも淹れ、気分転換に葉璃の寝顔を覗きに行こうとヘッドホンを外す。  するとそこに、タイミング良く書斎の扉がそろりと開かれて可愛い恋人が顔を覗かせた。 「……聖南さん……」 「ん? どした葉璃ちゃん。 まだ起きてたのか。 添い寝してほしかった?」  まさか深夜の一時を過ぎてもまだ、葉璃が起きているとは思わなかった。  行き詰まった仕事で早くも肩が凝った聖南は、首を回しながら一時間ぶりの葉璃に近寄って頭を撫でる。 「違いますよっ。 あの……邪魔しないって言ったそばから申し訳ないんですけど、洗濯機の使い方教えてください」 「洗濯機? なんだよ急に。 俺やるから置いといていいよ?」 「いえ、俺も出来るようになりたいんです! ていうか、母さんに教えてもらって家の洗濯機は使えるようになったんですけど、こことは形から何から全部違うので分かんなくて……」 「……そうなんだ」 『……かわいー……花嫁修業してたっつーの、料理だけじゃなかったんだ』  ここは深夜だからとて洗濯機を回そうが、近隣から苦情が来るような安物件ではない。  突然どうしたのだろうかという問いを伏せて、聖南はまるで熱々カップルの同棲初日のように手ほどきするべく、洗濯機のある脱衣所に向かった。

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