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「……私、お先に失礼します。 体調が優れません」  重たい沈黙が流れて数分後、レイチェルが動いた。 「おい、レイチェル、大丈夫か? すまん……お前には酷な話をしてしまった……」 「いいえ、私が悪いの。 デビューさせていただく身ですものね。 セナさんがいくら素敵な殿方だからって、ワガママが過ぎたわ。 セナさん、……ごめんなさい」 「いや、……俺も連絡シカトしててごめん」  俯いたまま静かに席を立つレイチェルを、社長は止めなかった。  しおらしく謝罪の言葉を口にされた聖南もまた、どこかホッとした胸中である。  これで仕事に専念出来ると思えば、もう少し早く決断すべきだったかと後悔がよぎるも、恐らく二人きりではこうはならなかった。  社長がこの場に居てこその結果だ。 「セナさん、表まで送ってくださいませんか?」 「え、……」 「セナ、それくらいはしてやってくれ。 私はタクシーを手配しておく」 「……分かった」  女性のハートの強さに驚かされる。  たった今フラれた相手と二人きりになるなど、気まずくはないのだろうか。  立ち上がりかけた聖南が見上げた先、レイチェルは社長の労りに小さく微笑んでいた。 いかにも "可哀想な私を見て" と言わんばかりの表情とは裏腹の、芯の強情さが垣間見えてしまう。  聖南の気持ちを考えずに「好きでいていいか」と問うてくるところ、聖南の立場を弁えずにいつでも何度も連絡を寄越すところ、聖南の到着に合わせたかのように自身の気持ちを社長に告白したところ……。  どうしても逃げの一手しか取る事の出来ないよう、押しに押しまくるその姿勢は到底理解出来ないが、どれだけ無鉄砲でも社長にとって姪っ子である彼女の事はやはり可愛いらしい。  聖南の援護をしてくれつつ、キツくは咎められない社長の態度がレイチェルを本当の意味で落胆させなかった。  背中まで伸びた金色の髪をなびかせ、聖南の数歩前を歩く異国の女性。  美しいとは思う。 こんな女性から押せ押せで言い寄られれば、なびかない男は居ないかもしれない。  しかし聖南は例外だ。 なびくどころか迷惑でしかない。  想われて鬱陶しいなど、何とも贅沢で傲慢なのだが……さすがにあの場ではそれを言い渋った。 「気を付けて」  すでに駐車場に待機させていたタクシーが、社長からの命によって料亭の前に横付けされている。  聖南達に気付いた運転手が後部座席を開くと同時に、すぐさま聖南はそう声を掛けた。  すっかり辺りは暗くなり、庭園と料亭の雰囲気に合わせた人工的なキャンドルライトの灯りだけが足元を照らす。  たった今問題解決に至ったはずの聖南の顔色は、下からの照明だからとは関係無しにあまり良くない。  どうもスッキリしないのだ。  あげく、タクシーに乗り込もうとしたレイチェルが聖南を振り返り、平然とこんな事を言った。 「人の心は移ろいやすいもの、と言いますよね。 セナさん」 「は? ちょっ、……!」 「レコーディング日まで、ボイストレーニング頑張りますね。 お先に失礼いたします」  聖南が眉を顰めて手を伸ばした瞬間、バタンッと扉は閉められレイチェルを乗せた黒光りしたタクシーは走り去って行った。  スッキリしなかった理由が、分かった。  社長に見せた余裕の微笑み。  これまでの行動。  "自分なら射止められる" と言い切った、凄まじいまでの自信。 「おい、これ……」  何にも解決になっていない。  それどころか、障害のある恋の方が燃える情熱的な異国の血が騒いだのか、彼女の想いにさらに火がついた。  今日、葉璃にも告げようと思っていたのだ。  しがらみと不安が無くなった状態で、「何も心配する事はないよ」と抱き締めて、卑屈全開の葉璃の言葉を全身で受け止めるつもりだった。  またもや、計画が台無しである。 「うぉっ……!」  ちょうど葉璃を思い浮かべていたその時、ポケットに振動を感じて取り出してみると、相手は愛しいその子だった。 『あ! 聖南さんですか?』  ……癒やしだ。  葉璃の声のみで、聖南の顔色は直ちに生気を取り戻す。 もっと言えば、ネガティブな感情すべてが帳消しになった。  料亭へと入る直前、今夜は社長との食事をする事ともう一つ、聖南は葉璃へメッセージを送っていたのだが、それを律儀に守ってくれる彼が愛おしい。 「あぁ、俺のスマホだから俺だよー」 『あはは……っ、すみません。 そうですよね』 「どした? もう家?」 『はい。 今帰り着いたので、一応報告しておこうかなって。 家着いたら連絡しなさいってメッセージ見たから』 「あはは……っ。 そっか、りょーかい。 お疲れのギューは帰ってからな」 『あっ……はい。 ……してほしいです……』 「うーわ、不意打ちでそんな事言うからキュンキュンしちまったじゃん」 『すみませんっ! 気持ち悪かったですよね!』  そんな事あるはずねぇじゃん、と即座に突っ込む。  なぜそう未だに卑屈で、聖南に愛されている自信が湧かないのか不思議でならない。  しかし聖南は、なかなか変わらない彼の性格そのものが好きなのだ。 『聖南さん、何時に帰ってきますか?』 「何それ……かわいー。 早く帰ってきてほしいの?」 『えっ……あ、まぁ、……そりゃあ、……。 でも、社長さんとのお食事は大事な時間ですからね! 早く切り上げたりしたら怒りますからね!』 「はいはい。 怒られんの嫌だからすぐには帰んねぇよ。 だからって後から "寂しかった" とか言うなよ?」 『言いませんよ! ……たぶん』 「あははは……! 多分なのかよ」 『あ! お湯張りの音楽鳴ってる! じゃあ聖南さん、お疲れさまです! また後でね!』 「あ、おう、……」  葉璃がこよなく愛する、帰宅後のバスタイムの邪魔は出来ない。  早く帰ってきてとしょんぼりと耳を垂らしておきながら、聖南にも電話越しで聞こえた湯張りの音楽に葉璃はぴょんぴょん飛び跳ねていそうだった。 「お湯張りに負ける俺……」  幸せな気持ちたっぷりで項垂れた聖南は、料亭へと踵を返す。  今日はまだ、葉璃にはレイチェルとの事は話せない。 だがもうズルズルと先延ばしにもしない。  社長と話をしなければ。  可愛い可愛い姪っ子がとんでもない肉食系女子である事を分かってもらわねば、明日からの聖南も今日と変わらないストレスを抱えたままになる。 「さーてと。 早いとこ打開策見つけてうさぎちゃん抱っこしに帰らねぇとな!」  呟いた聖南はスマホをポケットにしまい、料亭へと舞い戻っていく。  その背中を、不躾な二つのファインダーが追っている事も知らずに───。

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