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 僅か一回のコール音で途切れ、食い気味に聖南は名を呼ばれたがそれを完全に無視し、どこが気になるのかと率直に尋ねてみる。  すると彼女は、待ってましたとばかりにこう言った。 『……二小節通してOKを頂きましたが、ラスト……歌い出しのリズムとブレス(息継ぎ)が合っていませんでした』  聖南はチラと葉璃を見た。 葉璃には通話中の会話が聞こえていないので、当然キョトンとして聖南を見返してくる。  レイチェルの言いたい事は分かった。  非常に細かい事ではあるが、歌手によって息継ぎ音が不快な場合も多々ある。 パソコンで制作する打ち込み音楽はデジタル音とブレスがマッチしないため削る事が多いのだが、今回は聖南が奏でるピアノ含めたバンド演奏と打ち込みが半々だ。  加えてレイチェルは腹式呼吸を完璧にマスターしているので、そう目立ったブレスとテンポのズレも無かった。  もちろん申し出の箇所も、である。 「今聴いたけどそんな事無えよ? そもそもレイチェルの歌い方だと、ブレスカット必要無かったからあえて残してたんだけど」 『………………』  彼女のそれは、決して不快な方のブレス音では無い。 幾多の名曲の通り、歌唱力があればあるほどブレス音は良い味となって効果的に転ぶ事の方が多いくらいだ。  バラードには付きものだと言っても過言ではない、というのが聖南の考えではあるが、沈黙したレイチェルは違うらしい。  ブレス音を残すか残さないかではなく、テンポがズレていたというのがよく分からなかった。  聖南が聴く限り、まったくそうは思わない。 とは言うものの、葉璃の助言で目が覚めた聖南は念のため問うてみた。 「……録り直したい?」 『はい。 おじ様にもお話しました』 「え、話したのか。 社長はなんて?」 『セナさんに相談してほしい、と……』 「んー……」 『やはり難しいですか?』 「……気に入らねぇままだとレイチェルが嫌だよな。 これがデビューの一発目なのに」 『セナさん、……!』 「ただし日程はこっちで決める。 ディレクターと俺とエンジニアのスケジュールを見ない事には、録り直しどころかスタジオも押さえらんねぇから」 『セナさん……! ありがとうございます! あなたは本当に素晴らしい殿方です! 愛しています!』 「あ、っ!?」 『ご連絡お待ちしていますね!』  おい!と声を荒げそうになった。  隣に恋人が居る最中、電話越しとはいえ不意打ちのアレは心臓に悪い。 無論、背筋が冷えるよくないドキッだ。  急いで通話を終了させ、スマホを気持ち遠くに置いた聖南は溜め息を吐いてデスクに肘を付く。 「録り直し、するんですか?」 「……あ、あぁ、仕方ねぇな。 社長に確認取ろうと思ったけど……俺に相談しろっつー事は、俺がゴーサイン出せば姪っ子には惜しみなく金使うって事だろ。 CROWNとETOILEの新曲にぶつけるわけにいかねぇし、時期はかなり遅れる事になるがな。 納得いくもん創らねぇと、俺もレイチェルも事務所もレコード会社もスッキリしねぇ」 「そう、ですよね……」  本音を言えば、工程を止めたくなどない。  戦々恐々としていた彼らの肩の荷が下りるまであとほんの少しだったのだから、もうしばらく責任やプレッシャーに縛られてもらうという報告をしなければならない聖南も、妙な罪悪感がある。  恐らく良い顔はされない。 親の七光りがそれほど受け入れられないのと同じだ。 しかし彼らは、裏で鬱憤を吐き出しながらも作業に従事してくれるだろう。  聖南が関わる事でそれを中和出来ると思っていそうな、姪っ子馬鹿な社長の思いはひとまず、最高のデビューという形で成し遂げるつもりだ。  けれど申し訳無いが、聖南はそれ以降の面倒は見きれない。  真に、今回だけ。 「まぁ、……俺が葉璃を溺愛してんのと同じって考えたら気持ちは分からなくもないしな」 「溺愛……っ。 それ、社長さんとレイチェルさんの事言ってるんなら、俺たちとはちょっと関係が違い過ぎません?」 「どう違うんだよ。 家族愛も恋愛間も大切な人って括りの中に入んじゃん。 俺と葉璃はその括りのド真ん中に居る」 「…………っ」  尤もらしくドヤ顔してみせた聖南は、葉璃を抱き上げて膝に乗せた。  今年は本当に激動の一年だと失笑しながら、恋人にぎゅっと抱きついて甘える。  そばにいてほしいと思った時、すぐに抱き締められる距離に葉璃が居るというのは聖南にとって何よりも重要なこと。  仕事にストイックだとか、何でも引き受ける従順な完璧主義者だとか、そんな風に都合良く使われている事があるのも聖南は自覚している。  何をどう言われようと腐った事は無く、それどころか結果を残す上にこの仕事が単に好きなのだ。  今までやってこれたのも、完璧なものを自身で見極めて納得してきた充実感、達成感を味わえるからであり、今回のように私生活と仕事をこれほど混在させられると、熱意が削がれても致し方ない。  劣等感を感じた事のない聖南は、男のプライドを傷付けられたので余計にである。 「あっ……聖南さん、……手が……っ」  ぐるぐると思いに耽っていると、右手が勝手に葉璃の背中を直に撫で回していた。  慰めて。 たくさん抱き締めて安心させて。 〝CROWN・セナ〟の自信を取り戻させて。 葉璃の体温を感じていないと、味わった事のない劣等感で芯が腐りそうになる。 「葉璃、したい。 今日はしていい日?」 「えっ……だめです」 「なんで。 三日は空いてるよ?」 「だ、だめ、……んっ……俺今日、まだ中を……!」 「洗ってないって? て事は、俺の楽しみが倍増だ。 やるしかねぇ」 「聖南さんっ」  そうと決まれば、葉璃を抱き上げてバスルームへ直行だ。  姫抱きすると身軽な葉璃は飛び降りる事があるので、肩に担いで運ぶ。  自身の安定と、三日の禁欲を穏やかにするためには葉璃の心と体が必要不可欠で、明日の彼のスケジュールは午前休である。  今日は逃せない。

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