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… … …  ノートパソコンを脇に抱えた聖南とレッスンスタジオに到着して、候補者五人のプロフィールがまとまったファイルを手渡された瞬間、緊張が最高潮に達した。 「うぅぅ……」  緊張し過ぎて、朝起きてからずっと痛くもないのにお腹がゴロゴロ鳴ってる。  あ、でもこれは、昨日の聖南とのエッチのせいじゃない。 だって最近、聖南はコンドームを着けてのエッチにハマってるから。  今日は十時から十五時まで、お昼の休憩を挟んで約四時間のオーディションを前に、俺は食欲も湧かなかった。 「ハル、なに唸ってんの?」 「今朝からずっとこの調子なんだよ」 「そっかぁ。 受け入れる側のハル君がそれくらい緊張感持ってると、周りも感化されちゃうからいい刺激になるね」  九時半を過ぎた頃、アキラさんとケイタさん、恭也がスタジオに集結した。  スーツを着たスタッフさんと、ジャージ姿のレッスン講師も次々にスタジオ内に入ってくる。  候補者の人達はたぶんもう更衣室に居て、俺よりドキドキしてるに違いない。  昨日とは違って長丁場だから緊張するよね、うん……分かるよ、その気持ち……。 「葉璃、落ち着いて。 手、洗いに、行く?」 「う、うん……、ちょっと行ってくる。 手のひらギトギトだ……」 「ついて行こうか?」 「ううん、大丈夫。 すぐ戻るよ」  恭也に心配されるのはいつもの事なんだけど、収録や撮影が絡んでないのになんで俺がこんなに緊張するのかな。  いけない。  聖南からも、スタッフさん達からも、しっかり見極めようって助言受けたばかりなんだから。  ベタついた手のひらをニギニギしながら歩き出すと、後ろから聖南に呼び止められる。 「葉璃! どこ行くんだっ?」 「手を洗いに行ってきます。 いつもの手汗で……」 「一人で大丈夫か?」 「大丈夫ですよ」 「そっか。 あ、でも候補者連中が着替え終わった頃だろうから、トイレ使えなかったらすぐに戻って来いよ」 「あっ……はい、分かりました」  そっか、そうだよね。  オーディションの間は一言も会話らしい会話をした事がないのに、俺と顔を合わせたりなんかしたらみんなが気まずいはず。  と言いつつ俺が一番そう思ってるんだけど。  スタジオを出て右に曲がり、少し歩いた先にあるトイレの前に立って扉は開けずに中の気配を窺ってみた。 「…………っ」  あ、……居る。 確かめる間もなく、数人の男の話し声が聞こえてきた。  聖南の忠告を聞いといて良かった……。  ベタついた手のひらは気持ち悪いままだけど、そこに入って行く気にはならなくて踵を返したその時。  思わず息を殺してしまうほどの会話を耳にしてしまう。 「──相当ムカついてるらしいじゃん」 「リュウジだろ?」 「そうそう〜」 「今日もルイに例のやつ仕込めって言われたんだけど」 「俺も俺も。 落とされてる能無しがイキってんじゃねぇよって感じ」 「っつーかさ、仕込めって言われてもルイにはもうバレてんじゃね?」 「ぶはっ、そりゃそうだろ! 前回はアイツが連絡して遅刻させたんだし」 「あん時、ルイどんなツラして来たんだろー。 見たかったなー」  ……何……? どういうこと……?  リュウジって誰だっけ、……あ、前回のオーディションまで残ってた人か。  その人が……? ルイさんに連絡をした? 何を?  あの日、大事な歌唱試験なのに遅刻したルイさんは、……昼寝してたって言ってたよ……?  どういうこと? どういうこと……?  あれだけビッショリだった手汗が、どんどん乾いていくのが分かる。  扉の外に居る俺の存在に気付かない男達は、まるで前の晩のバラエティー番組の感想を言い合ってるかのように楽しげな雰囲気で、ケラケラ笑っていた。 「え、て事は誰もルイと連絡取り合ってねぇ感じ?」 「は? じゃなんで今日も来てねぇの?」 「知らねぇよ。 てっきりお前らの誰かが仕込んだのかと……」  えっ!? ルイさん、来てないの!?  ウソ……っ、なんで、っ?  俺は急いでポケットからスマホを取り出した。 来てないのが本当なら、事情を聞かなきゃいけない。  前回の遅刻の理由がウソだったかもしれないと思うと、俺の心がザワザワして落ち着かなかった。 「あ、ルイさんからだ……っ」  見付からないように階段を上がってスマホを起動させると、数分前にメッセージが二件届いていた。 〝すまん少し遅れる〟 〝もうすぐ着く〟 「………………」  あの人達への言い知れない怒りより先に、ルイさんの到着が間に合うのかどうか、なぜ今日も〝遅れる〟のか、気になって仕方がなかった。  結局俺は手を洗う事が出来ないまま、スタジオに戻った。  無言でパイプ椅子に座った俺に、隣に居る恭也も、正面に居る聖南達からも何も言われない。 いつの間にか社長さんも、聖南の隣に居た。  まだ緊張してると思われてるんだろうな。  でももう、そんなのどっかにいっちゃったよ。  ファイルから十枚のプリントを抜き取る。  顔写真付きの履歴書と経歴書が二枚一組で綴じられたそれを一枚ずつ捲って、新しく仲間になる三人を思い浮かべてみた。 「オーディション始まっちゃうよ、……ルイさん」  午前十時。  ルイさんは、まだ来てない。  電話をしてあげようにも、運転してる最中だと危ないかもしれないとか、そもそも俺がそこまで関与しちゃうからルイさんの足を引っ張る人が現れたのかもしれないとか考えてると、俺に出来るのは到着を待つことだけだった。 「弓矢ルイは欠席か?」  社長さんの冷たい声が、スタジオ内に静かに響く。  欠席じゃないよ……っ。  来るよ、ルイさんは必ず来るよ。  俺と一緒にステージで踊るって言ったんだから! 「……あっ、あの、……っ」 「っ、すんません! 遅れました!」 「────ッッ!」  いても立ってもいられなかった俺が、生意気な口出しをする寸前だった。  スタジオの扉が勢い良く開いて入ってきたのは、黒いスーツを着たルイさんその人で──。 「……ルイ、さん……」 「……なんだ、その格好は」 「ジャージ忘れてしもて。 ジャケットは脱ぐんで、このままオーディション受けさせてもらえんですか」 「遅刻して来たあげく、か?」 「……すんません、……。 でも、……お願いします。 チャンスください。 お願いします」  この場にはあまりにも不似合いな格好で、ルイさんは正面に座る五人の男性達に何秒間も頭を下げる。  俺はそんな事よりも、ルイさんの疲れた顔と服装しか目に入らなかった。  だってあれは……スーツ……?  ……喪服、じゃないの……?  ウソでしょ、ウソ……っ。  ルイさんの今日の遅刻の理由を悟ってしまった俺は、震える膝を庇って立ち上がった。 〝どういうつもりなんだ?〟 〝アイツ自分の立場に浸り過ぎ〟 〝オーディションなめてんな〟 〝自滅してんじゃん〟  ──嫌でも耳に入る。  この、他人を小バカにしたような笑い声はついさっき聞いた。  あの人達の悪意は、みんなには聞こえてないかもしれない。 けれど、どれだけ取り繕ってても、本性は隠せない。  遅刻したライバルが一人減れば、自分たちの夢を掴む確率が上がるもんね。  この姿で現れたルイさんが、それどころじゃない気持ちを堪えてどれだけ大慌てでここに来たか、知らないんだもんね。  チャンスくださいって、今もまだ頭を下げ続けてるライバルに〝自滅〟を望む神経が、俺には理解できない。  震えが止まった。  十枚の立派なプロフィールを手に、俺は候補者の人達が固まって座る場所へゆっくりと歩む。  キュッ、キュッ、と床を踏む俺のレッスンシューズの音が響き渡り、全視線が俺に集中してる事さえ何とも思わなくなっていた。  ───バサバサッ。 「オーディションは終わりです。 あなた方は今すぐお帰りください」  俺はその時、生まれて初めて蔑みの感情を他人に向け、あ然とする彼らに夢への切符を投げ付けた。

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