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… … …  人前では我慢した。  誰が張っているか分からないので、車内でも我慢した。最近は後部座席で転がっている葉璃に手出ししたくとも、物理的に不可能だった。  車から降り、エレベーターに乗る時ももちろん我慢した。  玄関までの廊下がひたすら長く感じたが、堪えた。  しかし一度二人の城に足を踏み込めば、誰からも何からも邪魔されない。  ガチャン、と玄関の戸が閉まり、オートロックの施錠音と同時に聖南は葉璃をグイッと抱き寄せた。 「わわわわ……っ! ちょっ、聖南さん!?」 「葉璃ちゃん、ぎゅーして」 「えっ!? こ、こんなところで……!?」 「いいから。早く」 「えぇっ……!」  ひっしと抱き締める聖南の懐の中で、葉璃は驚きの声を上げてオロオロしていたが、聖南はさらに「早く」と急かす。  だがゆっくりと、聖南の背中に腕が回された。チェスターコートの背中部分をきゅっと握られた感触がして、ふと笑みを溢した聖南はようやく深く呼吸をする事が出来た。  我慢は大変だ。  どう頑張っても、無の境地に達するのは難しい。 「はぁ……落ち着いた」  いきなりごめんな、と詫びながら、聖南は葉璃の肩を抱いて洗面所へ直行する。  二人は帰宅後、大体すぐにうがいと手洗いをして喉のケアと風邪予防を怠らない。  そして様子のおかしい聖南の手を引き、リビングのソファに連れて行ったのは葉璃だ。 「落ち着いたって……どうしたんですか? 何かありました?」  腰掛けさせる前、聖南のコートを脱がせ、運転のために掛けたままだった眼鏡を外してやるのも葉璃である。  尋ねつつ衣装部屋へコートをしまいに行くのもついて行きそうな聖南に、「待っててください」と言い残す葉璃は、完全に恋人を手懐けていた。  葉璃からの「待て」を忠実に聞く聖南は、小さな足音が戻ってきた気配がしてじわりと口を開いた。 「……ん。……さっきルイと話してきた」 「え!? ほ、ほんとですか? ……なんて言ってました?」 「大パニック大わらわ、だって」 「あぁ……やっぱり……! やっぱり……そうですよね。そんな簡単な話じゃないって分かってました。俺がヒナタじゃなかったら、ルイさんを悩ませたりしなかったのに……っ! 俺なんかが……っ」 「問題はそこじゃねぇ」 「えっ?」  中腰で頭を抱えた葉璃に、間髪入れずに突っ込む。  気を揉んでいた事は嘘ではないけれど、ルイの発言で聖南のぐるぐるは別へと移った。  ヒナタが存在しないと分かった以上、時間はかかるかもしれないが受け止めなくてはしょうがない。  しかし現に、葉璃は存在している。  あれだけ入れ上げていたヒナタが葉璃だった……自分は同性に恋をしていたという事か……だがそれが何の枷になる?──これはまるで、聖南が葉璃と出会った時と同じ状況だ。  恭也同様、ルイはすでに葉璃への〝異常な愛情〟を注ぐ予備軍である事を自覚していた。  そんな事を聞いた日には、人一倍嫉妬深い聖南がぐるぐるしないはずもない。 「ふっ切れたルイが葉璃に惚れやしないか、俺はそっちの方が心配だ」 「それはないですよ!」 「なんでそう言い切れるんだ。葉璃はかわいくて綺麗でかわいくて綺麗でかわいーんだぞ。これは見た目の事言ってんじゃねぇんだからな? その内面と性格で夢中にさせてんのは俺だけじゃねぇ。〝皆さん〟もだろーがっ」 「何の話をしてるんですかっ?」  自分がどれだけ周りを虜にしているか、本人にはまったく伝わっていないなどあり得るのか。  夢中で追いかけていた頃から、聖南は葉璃に訴え続けてきたはずだ。  いや、〝その反則級にかわいーの何とかしてくれ〟では、ネガティブな彼には伝わらなくて当然かもしれない。 「葉璃、俺だけだって言って。とりあえずそれで今は勘弁してやる」 「勘弁って……うっ! く、苦しいです、聖南さん……っ」  妙な態勢で固まった葉璃の腕を引き、自分の胸元へ押し付ける。そのままグイグイと力を込め続け、葉璃に音を上げさせた。  葉璃の事が、可愛い。とても可愛い。  聖南の葉璃への気持ちは、我が子へ惜しみない愛情を無条件に捧げる親のような感覚なのだ。  愛されなかった聖南は、今生で誰かを愛する事など出来やしないと諦めていた。そこへ突然、聖南の前に天使のように舞い降りたのが葉璃だった。  今も愛し足りないほど、毎日葉璃を愛おしむ感情で溢れている。  葉璃を誰にも奪われたくない。  葉璃が自分以外を愛する可能性など考えたくない。  しかしどうしても葉璃は、心を許すとたちまち、それが誰であろうと相手を虜にしてしまう。  〝好きって言って。俺だけを愛してるって、言って〟  腕の中の葉璃へ、聖南は切なげに想いを吐露した。 「……葉璃」 「〜〜っっ! せ、聖南さんだけ、です。聖南さんのことだけが大好きですっ」 「…………っっ」 「うぅぅっっ!? く、く、苦しい……っ」 「葉璃ー……」  苦しい!と背中を叩かれながら、なおも葉璃を締め上げていく。  照れと少々の動揺を滲ませた〝大好き〟に、聖南はホッと安堵した。  ぐるぐるする度、言葉にしてもらわなくとも安心できるようにならなければと、いつも思う。  近頃は葉璃の方から、不意打ちで想いを伝えてくれる時もあるくらいだ。  想いは同じ。  月日が経つにつれ、それがどんどん膨らみ続けているのも同じ。  だが何故か、聖南は度々不安に押しつぶされそうになる。  社長に裏切られたと感じた時とは比にならないほど(あの時も凹みはしたが)、葉璃を信じていないわけではないのにすぐに不安に襲われる。

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