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 ── しかし。  聖南の淡い期待は、意外な形で裏切られる。 「な、なんか……プチ遠距離恋愛みたいで、ちょっとだけ……楽しみかもしれない、です」 「はっ!?」  節目がちだが確かに口元に笑みを乗せている葉璃の言葉に、呆気にとられた。  葉璃の口からネガティブとはかけ離れた発言が飛び出した事もだが、聖南が怒るかもしれないと溢しておきながらまったく予想だにしていなかった事を言われた聖南は、ただただあんぐりと口を半開きにして惚けた。 「ちょっ、はっ? え、……遠距離恋愛っ?」 「こっ、こんな時に楽しみだなんて言っちゃいけないって分かってるんですけど、でも……付き合ってすぐの頃を思い出すというか、あの時はあの時で楽しかったんで……」 「…………」  「あの頃からまだ一年も経ってないですけど……」と言葉尻を濁しつつ、葉璃はポッと頬を染める。  照れたようにふわりと笑う葉璃を見て、さらに呆気に取られた。  寂しがる聖南を宥める気はさらさら無いようである。  状況的にこうするしかないと駄々をこねた聖南とは裏腹に、むしろポジティブに捉えているのは葉璃の方で、卑屈になるどころか「楽しみ」とまで言ってのけた。  逃げ出す素振りも、強がっている様子も、はたまた心を殺して頑固さを出しているようにも見えない。  嘘が下手な葉璃の声色くらい、聖南は見抜ける。 「で、でも、俺も聖南さんとの生活に馴染んじゃったんで、きっとすっごく寂しくなると思います。特に夜とか……聖南さんがギュッて俺のこと包んでくれるから、あっという間に寝ちゃうし」 「…………」 「お人形さんみたいに綺麗なこのお顔と、少しエッチで眠そうな声で「おはよ」って言ってくれるの、毎朝楽しみだったんですけど、しばらくそれもおあずけってことですね」 「…………」  寝ぼけてもいないのに、葉璃がポロポロと本音を語ってくれている。  毎朝の「おはよ」を楽しみにしている事、聖南の顔を〝お人形さんみたい〟に思っている事、寝起きの声がエッチだと思われていた事も、聖南は初耳だった。  愛おしい抱き枕が無くては眠れそうにないと不安がる聖南と同じく、すっぽりと包まれている事で安眠出来ている葉璃も寂しいと感じてくれているのは伝わった。  とはいえその表情は、何とも晴れやか。  普段が普段なので忘れがちになるが、葉璃は土壇場では誰よりも肝が据わる。  時々とんでもなく天然で、聖南の考えの斜め上を行く事もしばしばあるが、今この状況でそうくるとは思わなかった。 「その……聖南さんから不規則な時間にメッセージが届いてたり、いきなり電話がきたりするとドキドキして……。会いに来てくれた時は尋常じゃないくらい緊張するんですけど、話してるうちに和んできて、下に居る春香たちにバレないようにイチャイチャして、だけどやっぱりドキドキして……」 「…………」 「聖南さんが帰る時は、車が見えなくなるまで見送って、見えなくなったらすっごく寂しくなるんです。部屋中に聖南さんの香水の匂いが充満してるから、「ホントに聖南さんがここに居たんだな」ってしんみりしちゃって。でも帰っちゃったから、そこに聖南さんは居ないじゃないですか。だから、「なんで帰っちゃったの」なんていう理不尽な怒りを聖南さんにぶつけるんです」 「……葉璃ちゃん、……」  ── 離れたくなくなるから……そういう事言わないでくれ……。  テーブルに腰掛け前屈みになっている聖南は、思いもよらない反応に困惑するばかりで言葉を発せずにいるが、代わりに葉璃がとても饒舌だ。  そんなこともあったな、と葉璃の語りと共に記憶を蘇らせていくなかで、彼が当時どんな気持ちだったのかを知ると途端に胸が苦しくなった。  聖南だけが育てていると思っていた恋心を、あの頃の葉璃もしっかり育てていたなどと聞かされると、嬉しいのに切ないという複雑な気持ちで心が疼いた。 「ここに泊まりに来た時は、毎回すっごくドキドキしてたんですけど、ワクワクもしてました。……へへっ、俺めちゃくちゃ緊張してて、手汗すごくて恥ずかしかったです。聖南さんは慣れてるかもしれないけど、俺は初めてでしたから。付き合ってる人のお家に来ることも、その人のお家のベッドで眠ることも。最初の頃はなかなか眠れなかったんで、聖南さんが朝まで、その……いっぱいシてくれたから、グッスリ眠れてたようなもんで……」 「……っ、葉璃、分かった。……もう、……」 「わぁっ、すみません! 俺ってば何をベラベラ語ってるんだろ! たくさん喋って喉が渇きました。お水飲んできてもいいですかっ?」 「あ、あぁ……いいよ」  その時ばかりは、キッチンに向かう葉璃を引き止めなかった。  パタパタと小走りで冷蔵庫まで駆け、常備してあるミネラルウォーターをコクコクと飲んでいる様を凝視するに留めている。  ── 俺ん家に泊まるの、そんなにドキドキしてたのか……。  何食わぬ顔を装っているが、聖南は盛大に照れていた。  まるでその時にタイムスリップしているかのように、葉璃は瞳を閉じ、感情のこもった話し方をした。そのおかげで聖南も当時を反芻する事になり、照れくささでどうにも心がむず痒い。  ── そりゃあ……楽しかったよ。マジで毎日バラ色だったよ。  葉璃のことを捕まえるまでが大変だったけれど、今だからこそ言えるが聖南は追いかける方が性に合っていた。  捕らえてからは、暇さえあれば葉璃と連絡を取り合い、時間を作っては会いに行き、学生だった葉璃を自宅に呼び寄せては逢瀬を重ねた。  毎日毎日、目覚めるのが楽しみで仕方がなかった。  現在の充足感たっぷりの幸せとはまた違う、初々しく甘酸っぱい気持ちで心が満たされていた。 「── ねぇ、聖南さん」 「……ん?」  ふと顔を上げた聖南に、ソファを挟んだ向こう側から葉璃がニコッと微笑む。 「俺、しばらく実家に帰ります。聖南さんが「もういいよ」って言うまで」 「……そのセリフ、出来れば一生聞きたくなかったなー……。俺が言わせたんだけどさ……」  彼らしくないポジティブな意見に、聖南の寂しさがいくらか薄れたのは確かだ。  けれど、いざ「実家に帰ります」という台詞を葉璃の口から聞くと、思い出で温まった心が急速に凍ってしまいそうになる。  一つ救いなのは、誰かの家に泊めてもらうだの、安いホテルを転々とするだの、聖南の不安を煽るような宿泊先を言わなかった事。  葉璃が迷わず〝実家〟と口にした時点で、明朝一番の聖南の大仕事は決まった。 「俺、平気ですよ。寂しいですけど、俺が離れてる事で聖南さんを守れるなら、何ヶ月でも何年でも待てます」 「……葉璃……」  ここに葉璃が居なくなるというビジョンが明確になると、ガックリと肩を落とし溜め息ばかり溢してしまう。  ただそんな聖南に掛けられたのは、今日はどこまでも彼らしくない先行き明るい言葉だった。 「プチ遠距離恋愛のあと、また一緒に暮らせるようになったら……今よりもっと、この生活に幸せを感じるんだろうなぁ」 「…………っ!」  項垂れている聖南の前で、葉璃がソファの背もたれに両手を乗せた。  未だ思い出に浸っているかの如くわずかに上を向き、ひどく柔らかな笑顔を浮かべて放たれた大好きな人の言葉は、聖南を大いに驚かせた。  あの頃のように、小さな事にドキドキする日々が待っているなら。  今の幸せがもっともっと大きなものに感じられるなら。  離れていても、大丈夫。  とてもそんな風には考えられなかった聖南の目からは、何枚も鱗が落ちていた。

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