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葉璃の首筋に鼻を埋めた聖南は、いつまでも二人の間にクッションが挟まっている事にムッとして、やんわりとそれを取り上げた。
「あっ」と不満そうな声を上げるも、葉璃は取り返そうとしない。むしろ、「どういう意味ですか?」と赤みの引かない両頬を庇いながら問うてきた。
「俺と離れたくない、って……?」
「座って話しようか」
「……はい……?」
言い渋っていても、いつかは言わねばならない事だ。
どうにか葉璃の思考が妙な方向へ突っ走らないよう、まずは自身の想いを吐露した聖南だったが、甘ったるいメロドラマを鑑賞直後の葉璃は当然ながら何が何だか分かっていない。
聖南は、奪ったふわふわクッションを葉璃に返すと、彼の肩を抱いてソファへと歩いた。葉璃の定位置である角に腰掛けさせ、その隣に隙間なくピッタリと座る。
首を傾げた葉璃の視線は感じていたが、ひとまず「ふぅ」と深呼吸し、伝えなければならない事を頭の中でまとめた。
とはいえ聖南は回りくどい話し方が苦手なので、葉璃が驚愕するだろう事は承知の上で結論から言ってしまう。
「── しばらく……別居しようと思うんだ」
「……っ、別居っ? 俺と聖南さんがって事ですか?」
「……そう」
「…………」
ちら、と横目で葉璃の様子を窺った。
すぐに聖南の言葉を理解した葉璃は、それまで見詰めていた聖南の横顔からふと視線を逸らし、大きな目を見開いている。そしてゆっくりと瞬きを繰り返した後、「そうですか」と一言呟いた。
葉璃はそれから少しの間、人形と化した。
真っ暗になった巨大なテレビ画面を呆然と見詰め、両手でクッションをギュッと握る様はひどく危なげだ。
あまり沈黙を置くと、葉璃お得意のぐるぐるが始まってしまう。
「あのな、葉璃。聞いてくれ。断じて、この生活が嫌になったとかじゃないんだからな? さっきも言ったけど、俺は葉璃がここに居てくんなきゃまともに衣食住できるか不安なくらい、葉璃との生活が俺に馴染んでるんだ。出来ることなら離れたくはねぇ」
「……そうしなきゃならない事情があるって……言いたいんですよね?」
「あぁ、もちろん。それを今から話す」
「……はい」
取り繕うように早口で言った聖南を、葉璃は思いの外しっかりと見返してきた。
もしも不安そうに瞳を揺らしていたら、聖南の覚悟が折れて先を話しにくくなると心配だったが、その後もそんな事はなく。
康平との通話内容の一部始終を語って聞かせ、証拠として送られてきた例の写真を葉璃に見せた際もまったく取り乱さなかった。
何度か相槌を打っていた葉璃がやけに落ち着いて見え、聖南の方が驚いていたくらいだ。
もしやそう見えるだけで、心の中では不安がぐるぐると渦巻いているのではないかと葉璃の表情を注視していたけれど、聖南には何の異変も感じられなかった。
「やっぱり繋がってたんですか、レイチェルさん……」
葉璃の落胆した声に、聖南は「あぁ」と小さく頷く。
落ち着いているどころか、葉璃はきちんと状況を把握していた。
一年前の彼からは想像も出来ない。
聖南の言葉などうわの空で〝別居〟の二文字が脳内をぐるぐると回り、ろくに会話も出来なかった頃が懐かしく思えるほど葉璃は冷静だ。
「……康平のところにきてんのは、マスコミが持ってる世に出す予定の情報。つまり報道規制が解除されたと同時にばら撒くつもりの、すでに出来上がったネタだ」
「はい……」
「普段だったら、そんなの捏造なんだからほっとけって言えるんだけど。ただ今回は……」
「俺と聖南さんのこと、レイチェルさんにバレちゃってますもんね」
「……そういう事」
「別居」には狼狽したようだが、聖南がなぜそう言うに至ったのかを知ると、彼も〝それが最善策だ〟と言わんばかりの物分りの良さであった。
未だ報道規制が敷かれている業界には暗黙のルールがあり、それが解かれない限り彼女が広めたい〝事実〟が世に出ることはない。
しかしレイチェルは、聖南と葉璃の今後を脅かす〝真実〟を知ってしまい、着々と裏取りを進めている。
彼女にとって都合の良い話を触れ回るためとはいえ、マスコミと結託しているというのが厄介なのだ。
いつ、どのタイミングでその特ダネが売られてしまうか分からないとなると、葉璃も神妙に頷いていた、〝レイチェルを諦めさせる事〟が今一番の課題である。
逃げもせず、悩んでいる様子もない葉璃の肩を抱き、甘えるように頭を寄せた聖南は続けた。
「葉璃、俺たちが離れといた方がいい理由、もう一つあるんだ」
「…………?」
「俺に密着取材の仕事がきてる」
「え!? そうなんですか!?」
「ん。俺の返事次第ではすぐに取材開始らしい」
「み、密着、取材……」
「俺もこの手の仕事は受けた事ねぇから、勝手がさっぱりだ。どこからどこまで追いかけてくんのか。さすがにプライベートまで踏み込んできたらNGかけるけど、成田さんが言うには今この仕事を断るのは得策じゃないんだと」
「それは……」
多くを語らずとも、〝密着取材〟が何たるかを葉璃は何となく察したのだろう。
離れる決断をした理由が一つではなかった事で、聖南の本気を感じ取った葉璃の視線がやや下方に落ちていく。
どうにか離れなくて済む方法は無いか、この短い時間の中で葉璃も考えてくれていたのかもしれない。
「葉璃はどうしたい?」
「お、俺ですか? 俺がどうしたいか……?」
聖南は立ち上がり、行儀は悪いがテーブルに腰掛けて前屈みになった。しょぼんと項垂れているように見える葉璃の表情を、もっとよく窺うためだ。
「そう。離れた方がいいと思う?」
「えっ、いや……そんなこと言われても、聖南さんはもう、どうするか決めてるんでしょ?」
「……まぁ。レイチェルを諦めさせる事が最優先かなとは思ってる」
「俺もそう思います」
顔を上げた葉璃と目が合った聖南は、こんな大事な時にでさえ最終兵器の瞳にやられた。
「クッ」と呻きながら胸元を押さえ、もう片方の手で葉璃の手を握る。
背丈の差分、聖南と葉璃は手のひらの大きさが違う。聖南がギュッと握り込むようにして掴むと、葉璃の手はすっぽりと収まってしまう。
だが二人は、握り合うだけでは終わらない。
聖南の言葉に最後までしっかりと耳を傾けてくれた葉璃の方から、指先で合図が送られる。それをキャッチした聖南は、葉璃の手をマッサージするようにニギニギと動かし、最後に甲に口付けた。
その間、ほんの五分ほど。
この手のひらでイチャつく術は、清く眠る日のベッドの中で編み出されたものだ。
どちらからともなく両腕を広げ、互いの背中に腕を回して抱き締め合うのも、いつからか当たり前になった。
聖南の強行突破によって、葉璃にとっては少々強引に進んでいったと言っても過言ではない同棲も、気付けば早十ヶ月が過ぎている。
二人の生活パターンも、二人だけのルールも、沢山出来た。
葉璃との毎日が失くなってしまったら、聖南は以前のように眠れるのか、仕事へのモチベーションを保っていられるのか、不安で不安で仕方がない。
「ふふっ」
「……葉璃?」
しかし葉璃は、余裕そうだ。
抱いていた体を離してやると、今にも泣きべそをかいてしまいそうな表情をしているのは、何故か聖南のみだった。
「さっき聖南さんが言ってくれたことって、俺がぐるぐるしちゃわないように、ですよね?」
「……そうだけど」
「ふふっ、そっか」
そこまで見透かされていたとは知らず唖然とする聖南の前で、クッションを手放さない葉璃はクスクスと笑い続けた。
聖南はそんな葉璃を、だんだんと下がってゆく口角を自覚しながら不満そうに見詰める。
こんなにも離れ難いのは自分だけなのかと、不満と同時に猛烈な寂しさが湧き上がってきた。
「な、なんでニコニコしてんの? 葉璃ちゃんは寂しくないの? 俺と離れても平気?」
「いえ、平気じゃないです。でも俺、こんなこと言ったら聖南さん怒るかもしれないですけど……」
「何? なんでも言って?」
聖南が葉璃に怒るのは、彼が自分を大事にしない時と、自身を必要以上に卑下する時だけだ。
それ以外なら何を言われようと、どんな文句をぶつけられようと沸点まで到達する事はない。
この状況なので、たとえば〝息抜きのコーヒー〟のような、離れなくて済む良案が閃いたのかもしれないと、葉璃の笑顔に見惚れていた聖南はわずかに期待した。
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