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❤︎  帰宅は一時を回った。  近頃は警戒して後部座席を特等席に横たわるのが葉璃のお決まりだったが、今日は堂々と助手席に乗せた。  案の定、記者からの尾行に遭ったが、深夜一時ともなると誤魔化しが効かないと悟ったのかあちらも堂々と聖南の車のやや後方を走っており、何とも不愉快であった。  ちなみに不愉快の原因は他にもある。  大事な大事な葉璃が、じっとこの手に留まっていてくれないジレンマが聖南の心を焦らせてしまっている。  来月からは仕事とはいえ聖南ではない男二人と同居し、何かのキッカケで万が一葉璃を手放してしまった時にはすかさずアキラが掻っ攫うと言われ、アキラでなくとも虎視眈々と狙う輩が居ると念押しされては、これまでの比にならないほど気が気ではない。  恋人が魅力的過ぎるのも困りものだ。  アイドルだから、売れっ子になったから、とそんな安易な理由だけでは同性に夢中になったりはしない。  聖南がそうであるように、葉璃は無性に、すべてにおいて男心をくすぐる要素を持っている。 「ふふっ……どうしたんですか、聖南さん」 「んー」  浴槽に湯を張る間に手洗いとうがいをしてしまい揃って裸になった二人は今、向かい合って入浴中である。  葉璃をぎゅっと抱き締めては離し、また抱き寄せたかと思うと細い首筋に鼻を埋める聖南は、乱れた心を落ち着かせるように甘えた。  全裸になる事も、聖南から全身を洗われる際も初々しく恥ずかしがる葉璃にそそられはしたが、それよりも肌を合わせて戯れる方を選んでいる時点で相当だ。 「葉璃が、俺からどんどん遠くに離れてく気がする」 「えぇ? 何言ってるんですか。……っ、わわっ!」  パシャッと水を弾き、儚く微笑む葉璃を強く抱き締めた聖南は、素早く唇を奪った。 「んっ……」  角度を変え、触れるだけのキスを三回落としたのみでまたひっしと抱き締める。  前回の密会から七日と空いていないというのに、葉璃の事が恋しくてたまらなかった。  いざこうして触れ合っていると、思っていたよりも感触の記憶というものは薄れていくのが早いと感じる。  素肌の柔らかさやきめ細かさは、実際にさらさらと撫ぜなければ満足いかない。  たった今触れたはずの唇も、抱き締めて触れ合った肌の感触も、こうしているのが当たり前だった頃をどうしても懐かしく思ってしまう。 「はぁ、あの頃はマジで恵まれてたんだなぁ……」 「あの頃?」 「葉璃と暮らしてた時、俺は毎日幸せだった。葉璃の声で起きて、葉璃の声を聞いて眠れて、いつでも抱き締められる距離に居てキスが出来る……なんて贅沢だったんだろうな」 「それを言うなら俺もですよ。……っていうか、あの、あ、あんまり見ないでください」 「は? なんで」 「何ででも!」  抱き締めては離れ、葉璃の顔を覗き込むようにして見詰め、気が済むとまた抱き締めるを繰り返していたせいで、葉璃が浴槽の端まで逃げてしまった。  照れてそうなっているのは分かるが、体の大きな聖南が優に二人は浸かれる広いバスタブなので、逃げられると追わなくてはいけない。  水を弾きながら捕らえに行くと、葉璃は顔面を覆いそっぽを向いて聖南の視線から逃れる事に必死になっている。 「も、もう! やめてくださいってば!」 「なんだよ、手どけろ」 「嫌です! じゃあジーッて見るのやめてくださいっ」 「だからなんで」 「だ、だって……!」  面白がる意図は無かった。  葉璃の手首を掴んで無理に顔を覗き込もうとすると、あまり見るなと言われた聖南は思わず笑んでしまう。  顔面のみならず耳まで真っ赤だった。  これは湯で温まってそうなったのか、聖南にあてられてのそれなのか、無理に聞き出さなくても分かった。 「聖南さん色気ムンムン過ぎます……どうやったら表情だけでそんなになんか……っ、なんか……っ! ふわふわ〜っていうか、キューッていうか、なんか、なんか、……!」 「葉璃ちゃん何言ってんの」 「わ、分かんないですっ!」 「あはは……っ、なんだそれ」  明確な答えなどはなから期待していなかったが、それにしても意味不明である。  湯が滴るとさらに上質な男になる恋人から直視できないほど見詰められ、抱き竦められ、葉璃はあわあわと慌てているだけに過ぎない。  熱い視線から逃れようとする葉璃と、どうしても照れた顔が見たい聖南がひとしきり戯れていると、バシャバシャと湯が暴れた。  頑としてそっぽを向く葉璃は、とにかく照れてしょうがないらしく、本意気で細い手首は掴みきれない聖南が折れるしかなかった。  葉璃の体をくるりと反転し、太ももに乗せる。後ろから抱き締めるようにすると、ようやく葉璃は腕を下ろして落ち着いた。 「ん、これでい?」 「……はい。落ち着きました。でもあんまりそこ触らないでください……」 「元気になっちまうって?」 「…………分かってるなら確信犯として逮捕します」 「葉璃に逮捕されるなら本望」 「またそんなこと言って!」  直接性器に触れたわけではないが、葉璃の太ももの付け根をさわさわと撫でると窘められた。  照れ隠しのように少し低めの声を出した葉璃になら、聖南は何をどうされようと構わない。  行為に及ぶのは簡単だ。  未だこれほど聖南に照れてくれる葉璃をその気にさせるのは、容易いからだ。  だが戯れていたいのは聖南も同じで、窘められたからにはおとなしく言う事を聞く。  聖南に背中を預けてくれた葉璃をいやらしく感じないよう抱き締め、高濃度の炭酸入浴剤で薄い緑色に染まった風呂を堪能した。  幸せなまどろみのひと時に、たまらずあくびが漏れる。  葉璃は可愛くパシャパシャッと湯で遊び、聖南の心を絶えず疼かせた。  この時間が何よりもホッと出来る……そう思い瞳を閉じた聖南の腕の中で、ぼそりと葉璃が呟いた。 「聖南さんが言ってた通り、……居ましたね」 「あぁ、マジでな。今ダブルで密着されてるわ、俺」 「気が休まらないですね……」 「まぁ俺が仕掛けた事だし。完全に挑発してることになっから、葉璃も身の回り気を付けろよ? 異変感じたらすぐ教えて。ボディーガード雇うから」 「俺を追っても意味無いですよ」 「女の嫉妬がとんでもなく怖えってこと、葉璃が一番よく知ってんだろ。……あぁ、やっぱ心配だ。さっそく明日からボディーガード雇おう」 「必要ないですって」  過去に何度も危ない目に遭っているというのに、葉璃本人がそんなにもあっけらかんとしているのが信じられない。  葉璃は必要ないというが、それでは聖南の気も収まらないので、以前まったく気配の無かった優秀なボディーガードを康平に頼もうと決める。  情報を得てすぐに詮索してきた事からも、早くもレイチェルは葉璃に対し激しい嫉妬の炎を燃やしているだろう。  葉璃が聖南宅に泊まった事までを知った明朝、非常識な着信を再度覚悟しなければならない。  さらには、女性の嫉妬の先には実質的被害がゼロではないと身を持って痛感した聖南は、自身よりも葉璃の安全を確保せねばと思い立った。  この先どんな事態になろうとも、誰かに葉璃を掻っ攫われるのは御免だ。 「葉璃、俺は葉璃を手放すつもりはないからな」 「……ん? ……はい、?」 「誰が言い寄ってきても、俺の事忘れるなよ」 「えぇ? 誰も俺に言い寄ってなんかきませんよ。もし言い寄ってきたとしても、同情されてるとしか思えないんで」 「……葉璃は自分をもっと知った方がいい。俺がかわいーって言ってんのも、どうせまだ信じてないんだろ」 「信じてないっていうか、俺のこと可愛いって言うの聖南さんくらいですから、恋人の欲目っていうか……俺のことちょっとだけ良く見えてるだけだと思います。聖南さんは違いますけどね」 「俺?」  相変わらずの卑屈な発言に苦笑いしていると、なぜか聖南の方に矛先が向いた。  葉璃の手を握った矢先、フッと微笑んだ気配がする。 「聖南さんは、誰が見ても綺麗でカッコよくて、非の打ち所が無い人です。一度でいいから聖南さんに抱きしめてもらいたいって、みんな思ってますよ」 「んな事ねぇよ。てかそれブーメランだから」 「ふふっ……聖南さんも自分のこともっと知った方がいいですよー」  言い返そうした聖南へ、ふと葉璃が振り向きニコやかな笑みを見せた。  ──はぁ? なんだその笑顔。反則だろ。 「…………」  可愛過ぎて呆れた。  思考が停止した。  すぐには言葉が出てこなかった。  葉璃の自己肯定感を上げる事は、おそらく何よりも難しい。  だがただ一つ、自信は持たなくていいからせめて危機感を持てと、アキラからの忠告を葉璃にも促したい気持ちでいっぱいになった。

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