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第5話 紫陽花
雨が、しとどに降っていた。
夜半に、ふと目を醒ました頼隆は、傍らで、男が眠っているのをちら---と見た。
周りと比べてもけっして低くはない身丈の頼隆より頭一つ大きい。だが身幅は、二周りは違うのは、頼隆が細身であるせいだろう。
いわゆる益荒雄ぶりというやつか、造りのはっきりした目鼻立ちは強面だか、見事に整って、迫力と威厳を漂わせている。天下人との座につけば、さぞや似合うであろう。
ー憎らしい---ー
頼隆は、思わず手を伸ばして、その大ぶり鼻をつまんでいた。
「何をする。」
わしっ---と男の手に手首を掴まれたが、その目は怒ってはいなかった。
「寝首を掻かれたいのかと思うたのだが、生憎と柄物が無くてな。」
頼隆が、つん---とそっぽを向いて言うと、その喉がくっくっ---と笑った。
「首でも締めればよかろうに。」
「その猪首では、よう手も回らん。」
「それは幸い。」
直義は、くい---とその背に手を回し、胸元に抱き寄せた。頼隆の悪態は、嘘だ---と察していた。細身とは言え、頼隆の鍛え方は尋常ではない。その気になれば、直義を絞め殺すことも不可能ではない。
だが---
「何故、儂を手にかけることを考えない?」
やや不可思議に思っていたその事を、直義は率直に訊いた。隙があるわけではないが、そのような素振りがあれば、わかる。いっそいたぶるネタにでもしてやろうかと思っていたが、それに関しては期待外れだった。
「言うたであろう、柄物が無い。」
「嘘だ。」
「嘘ではない。戦場であれば、清々と切り捨てておる。」
頼隆は、直義の手を振り払い褥に身を起こした。雨が、止まない。
「そうか---?」
むくり、と起き上がり、背後から探るような低い声で形の良い、意外にぽってりとした耳に囁きかける。この耳が、いわゆる美人ではなく、仏身のような印象を与えるひとつの要因ではあった。
「儂にはそなたに斬りかかられた記憶が無い。」
「本陣深くにおれば、刃も届かぬわ。」
「奇襲好きのお前がか?」
本陣襲撃は、頼隆の最も得意とするところだ。音もなく背後から攻めかかり、敵本陣を壊滅させる、或は黎明に正面から疾風の如く攻めかかり、応戦の隙も与えず撃破する。小国で武器も人も少ない佐喜が生き延びる為の必勝の手段だった。だが、その度に将は生命を賭け、身を削る。総大将にあるまじき手法だが、その脇を護る幸隆と志賀の援護は鉄壁だった。白勢の軍は数こそ少ないが、恐ろしく精鋭だった。隣国に一目置かせる要因はそこにあった。長柄の槍に鉄砲---どこから---と思うくらい、少ないが最新の武器を皆が所持し使いこなしていた。
遠巻きにしか頼隆を見る事の無い敵将は、刃を振りかざし、あるいは白扇を振るう仮面の総大将をー鬼神ーと称していた。そう、頼隆の軍配は、表には白地に金泥で白勢の家紋の『違い鷹の羽』を描き、裏に墨で黒々と呪符を書いたものだった。元々は、他ならぬ直義が元服の祝いに贈った品であり、裏面は連枝の鳥が彩色で描かれていたが、頼隆が紙を貼らせ、上に自ら呪符を書いた。いわば曰く付きの代物だった。その呪符の意味は、頼隆の他には誰も知らない。亡くなった彼の母親以外は---。
「残念ながら---」
頼隆は、胸元に延ばされた手を振り払い、言った。
「我れは衰勢が読めぬほど、暗愚ではない。
ましてや私情で家を危うくするなど出来ようか。」
「因果なヤツよの--。」
直義は、自分と違い、頼隆のすんなりと伸びた色白の項に唇を這わせた。
「素直に惚れたと言うてしまえ。」
「誰がじゃ---」
首筋に沿って舌を游がせれば、ピクリ--と細い身体が震え、口から漏れる息が熱い。身体と心を引き裂かれるような快感に頼隆が
かすかに身をくねらせる。
「止めよ。」
荒い息を抑え、愛らしい唇が抗う。
「我れは、そなたに訊きたいことがある。」
「---ん?」
何時になく冷静な瞳に、直義は悪戯を止めた。
「何故、攻めた。あの戦は必要だったのか?」
頼隆は、今の今まで、どしらうしても腑に落ちなかった『あの戦』のことを口にした。その時まで、両国の関係は悪くは無かった。敢えて戦に及ばねばならない理由は何も無かった。都に進む九神の後詰めとしても十分な役割を果たしていた---筈だった。それなのに---
「必要だった。」
直義は平然と言った
「湯原が助けを求めて来たゆえの。」
湯原とは、佐喜の地侍で白勢の旧臣のひとりだった。幸隆擁立派のひとりではあったが、穏健派で、謀反を起こすような男ではなかった。それゆえ、頼隆も鎮圧---というより、諌める程度の派兵でしかなかった。
ところが---である。
「お主が焚き付けたのであろうが---」
軽く睨みつければ、直義はバレたか--というようなワルガキのような顔でしれっと笑った。
「致し方なかろう。」
頼隆を改めて褥に押し倒して、襟元から夜着を剥ぎ取り、その胸の小さな珊瑚のような突起を摘まんだ。揉みしだくように擦ると細い顎が、否応なしにせり上がる。
「お前が欲しかった。いかんか?」
「当たり---前---だ。----ふ--ぁ---」
吸われて、喘ぎは一層大きくなる。
ーそんな些細な、痴れた理由で---。ー
戦を起こして許されよう筈が無い。
頼隆は、体内に熱が涌き、血脈を奔るのをこらえながら、頭を巡らせる。
ー違う---違う何かが---ー
得心の行かぬさまに気づいた直義は、その唐変木に苦笑いしながら、今一言、耳打ちした。
「お前、葉室の使いと度々会うていたろう?知らぬと思うてか?」
は---っと、一瞬、頼隆の目が見開かれたが、すぐに伏せられた。
「同盟の話なら、断っておる。」
佐喜の西に位置する葉室は、九神とはあまり懇意ではない。かく言う頼隆も、当主の忠興をあまり好いてはいない。執念深い、酷薄な男だ。国政も力任せで民の反発を買っていたが、残忍な刑罰を平気で執行するため、謀反も起こせない。しかも好色で節操が無いとの噂もあった。だから同盟も拒んでいた。
「あ奴が、そんなことで諦めると思うか?」
国主同士が顔を合わせていないことは、ささやかながら幸いだった---と直義は、思った。頼隆の姿を見れば、国も当主も---とどんな手を使ってでも奪い取ろうとするだろう。
ーそれだけは、許さん。ー
「戦ならば、負けはせぬ。」
息巻く頼隆に、やれやれ---と直義は息をついた。
「相手は、百戦錬磨の妖怪のような男ぞ。
お前では太刀打ちできぬ。やはり、お前はここで大人しくしておれ。」
「何故じゃ」
「刀を交えるだけが、戦ではない。お前も諜略をせぬわけでは無いが---」
真っ当すぎるのだ。人の世の欲に疎い頼隆では忠興の手管に敵いようもない。
ーだから---ー
「お前はここで儂のものになっておれ。佐喜も白勢の家も、儂が守ってやる。お前の兄弟も---な。」
「我れも、武士じゃ。」
むくれる頼隆に、軽く叱りつけるように直義は言った。
「身の程を知れ。お前はまだ子供だ。それに---」
ーその容姿では、いらぬ敵を作るー---と思ったが口をつぐんだ。頼隆が最もその美貌を『引け目』に思っているのは良く解っていた。さっ---と顔を曇らせる頼隆を宥めすかすように、今ひとつの本音をふ---と洩らした。
「その知勇を他に利用されるのは、敵わん。」
さ---と頼隆の顔に輝きが戻った。
「なれば、我れを戦に出させよ。男として腕を奮わせろ。」
だが、直義の答えはすげなかった。
「駄目じゃ。」
再び、頼隆の面に絶望の色が走った。
「そなたは、まだ儂のものになりきっておらん。身も心も儂のものになれ。儂だけを想い、儂だけを求めよ。---それまでは、ここからは、出さぬ。」
言外にー幸隆を忘れよーと言われるのが、頼隆には何より辛かった。実の兄弟である。疚しいことは、何もない。が、直義に抱かれるたびに、ーこれが兄上であったなら---ーという思いが、頭をかすめる。
直義も、それは察している。頼隆は、黙って目を閉じた。
雨音が、一際大きくなった。明日には、紫陽花の花も一際大きく咲くだろう---とちら---と思った。
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