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第6話 苧環(おだまき)
ーしずやしず しずのおだまき繰り返し 昔を今になす よしもがな---ー
頼隆は、呟きながら、壁にもたれてぼぅ---と暗い室内を見ていた。
目の前には、雪を被った庭先の南天の枝に遊ぶ二羽の雀。鷹が彼方から狙っていることも知らず、無心に遊ぶ無邪気な雀達---。
縁に向かったもう一方の襖---寝室の側には広い雪原に二羽の鶴が呼びあい、戯れている図が描かれていた。
おそらく、替えた調度のひとつひは、この襖絵だろう---と頼隆は思った。無沙汰を慰めるためではなく、明確な意図をもって配されたことは、雀達の絵より、鶴の絵のほうがやや新しいことからも見てとれる。
ありがちな構図からすれば、鶴の絵ではなく、紅葉と雉の彩色の豊かな絵柄をもって対比させるほうが好ましい。元は、入口の襖とともに春夏秋冬が巡っていたはずだ。
だが、その春夏の絵の襖があったであろう場所は、漆塗りの格子に変えられている。
書院と寝所を隔てていたであろう襖も外されて、今は無い。いや、本来、鶴の絵は、こちらにあったのかもしれない。
ー連雀---か。ー
頼隆と兄の幸隆の兄弟を暗に指しているのは、その構図からもわかる。無心に赤い実を啄む一羽を、やや大きめに描かれた一羽が羽根を拡げ庇うように枝に止まっている。
そして---二羽の雀を狙っているのは、直義だろうか---いや、この乱世、誰であってもおかしくはない。
頼隆は、この大鳥に拐われた、小さな雀であった。だが、この大鳥は、酔狂なことに雀を我が巣に連れ去って、ためつすがめつ眺め、時に突ついては面白がっている。
ー趣味の悪い男だ---。ー
男を囲って何が面白いのだ。気が知れぬ----と頼隆は、今一度、大きく息をついた。
ーだが---ー
その『趣味の悪さ』に染まりつつある自分がいた。あの『行為』自体は受け入れ難いが、触れる肌の熱さ、体臭に、安堵している己れに愕然としていた。
それは『自分も人の世にいる。』ことの安心感のようなものだった。男の欲望を注ぎ込まれ、熱を呼び起こされ、今まで知ることの無かった熱情に巻き込まれる---城主の、武士の頼隆には許されざる繚乱を解き放たれることは恐怖であった。が、同時に偽らざる快感でもあった。束の間の開放感に満たされる---全ての呪縛を振り捨てた一瞬でもあった。
同時にそれは、兄、幸隆に対する『裏切り』とも思えた。
ー会いたい。ー
と切実に思う自分の思いはある。しかし、会うことはできない。
ー我れは、変わってしまった---。ー
この『籠』に囚われてはや半年以上、抱かれ続けた男の匂いが身の内深く沁み込んでいる。独り寝の宵に温もりを探してしまう己れの頼りなさなど、かつては知るよしもなかった。胸裡深く抱かれて眠ることの心地好さに、思わず男の襟元に顔を寄せてしまう自分の姿は、もはや兄の知る自分ではない---。
ーもう会うことは出来ぬ---。ー
頼隆は自分の性を恨み、男を恨みつつ、開きかけた扉をもはや閉じることの不可能を悟っていた。
ー兄上---。ー
襖を見つめ続ける目に涙が滲んでいた。
頼隆には全く知らされていなかったが、幸隆は頼隆が連れ去られて後、幾度も鷹垣城に足を運んでいた。
ー頼隆さまは、お会いにはなりませぬ。ー
再三の面会の懇願にも、九神の執事のあしらいは冷たかった。
ーお身体もお心も、いたってお健やかにお過ごしです。今はご自身のあるべき様におありになることを受け入れておいでです。ー
ジロリとその狐目に睨まれて、幸隆はなおもすがり着くこともできなかった。
ー今のご対面は、頼隆さまのお心を乱すだけ。お引きなさいませ。ー
にべもない執事、柾木恒久の冷徹の前に、幸隆は、しぶしぶと帰途に着くほかは無かった。度重なる戦の加勢は、ただただ頼隆を取り戻さんがため---しかし、恩賞は手厚く過ぎるほど渡されても、頼隆帰還の願いは全く聞き入れられる余地も無かった。
この日も---項垂れて国に戻った幸隆は、天守に登り、ひとり無言で空を見上げた。
ー御前様---申し訳ござらぬ---。ー
頼隆の母、真朱御前がみまかってから、頼隆の養育は幸隆の母親に託された。正しくは、幸隆の母親が自ら願い出て許されたのだ。
そして、幸隆は母親ともども、心血を注いで頼隆の養育に当たった。
幼少の折から、頼隆の才は飛び抜けていた。たおやかな容貌は母親ゆずりであったが、その質はある意味、不可思議なものであった。
簡単に言えば、人嫌い。学問にも武芸の修練にも人一倍、熱心に取り組み、習熟も早かった。が、どれ程褒められても、嬉しそうな表情は見せなかった。
『我れは兄上を越えられぬ。』
いつも、そう呟いて哀しそうな顔をするばかりだった。
ー何を言うか。歳が違い過ぎるだけじゃ。そなたとて、大人になれば、儂より、ずっと立派な武将になれる。ー
そう言って優しく頭を撫でても、淋しそうにかぶりを振るばかりだった。
『我れは兄上のようになりたい。だが、なれぬ。---それが口惜しい。』
ある時、幸隆の母親にぽそり---と頼隆が漏らした、と母親が言っていた。
幸隆の母は、それが何を意味するか、うすうすとは察していた。幸隆は見かけこそ武士らしく、やや厳ついが人好きのする性(たち)だった。心根の優しいところもあってだろうが、さして身分の高くない出自ゆえか、かえって城の者達も打ち解け易く、ざっくばらんな話が飛び交うことも多かった。
頼隆には、それが何より羨ましかった。
頼隆の周囲は幸隆母子を除いては、皆、一歩引いて接していた。嗣子ということもあるが、まずもって人離れした容姿に引いてしまうのだ。『脇侍の童子さまか、天人のお使いのよう』というのが、城中でのもっぱらの評判だった。遊び相手の家臣の子らさえ、
ーお怪我などさせたら、神罰が下るーなどと、とんでもなく尻込みをして、相撲のひとつも取ってくれなかった。
十歳の頃には、思い詰めて、自分で自分の顔を傷つけようとさえしていた。が、気付いた幸隆に宥められ、『天のお母上が泣きますぞ。』と窘められて断念した。
そもそも容姿だけのことではない---ということに幸隆母子は気付いていた。空気が違うのだ。纏っている『気』が常人とは異なることに、頼隆の成長とともに気付かないわけには、いかなかった。
『人にして人に非ず---とは、このことだったのですね。』
幸隆の母親は、溜め息まじりに呟かずにはおれなかった。が、幸隆と彼の母親とともに居る時には、その張りつめた『気』も少しも和らいで、人の子らしい無邪気な活達な様を見せた。時には、とんでもない悪戯を思いついて、二人を慌てふためかせることもあった。
だが、成長とともに、男であることを意識し始める年頃になると、ますます頼隆の憂鬱は深くなった。鍛練を重ねても、いっこうに幸隆のような逞しい体躯にはならず、背丈こそ人並みに伸びはしたが、髭すらまともに生えてもこない。
ー体毛は体質じゃ、致し方あるまい。ー
幸隆は、そう言っていつも宥めてはいたが、
ー戦場で、この容姿(なり)では敵に舐められる。初陣にも出れぬ。ー
と憤慨する頼隆に言葉も無かった。
実際、初陣からこっち、仮面を付けるか、頭巾で顔を覆って戦に臨むよう進言したのは、父親の隆久だった。結果---、頼隆の戦績は目覚ましかった。
臆するどころか、無謀なくらい敵に突っ込んで大立回りをやらかす。---窘めて、程々で引かせるのが、昨今の幸隆の役割だった。
ようやっと陣中に連れ戻れば、既に全身に血飛沫を浴び、やっと仮面を外して、にっこりと満足気に微笑む姿はもはや菩薩とはほど遠かったが、それすらも怖気を震うほど美しかった。
むしろ、戦の興奮に頬を上気させた面は、天女のようですらあった。
ー摩利支天女さまとは、かようなお方ですかのぅ---ー
古参の家臣の誰かが、ぼそっと呟いたのを今もはっきりと覚えている。
様々に紆余曲折があったにせよ、家中も、幸隆と頼隆の関係も円満なものだった。
家臣達は、初陣を含めての頼隆の戦ぶりに驚嘆、感慨しきりであったし、幸隆の進言をよく聞き入れて周囲との関係もまずまず上手くいっていた。
『兄上の仰せだから、聞くのじゃ。我れは兄上を信じておる。だから聞くのじゃ。』
事あるごとに、頼隆はそう言って、幸隆をじっと見詰めて、そして、にっこりと、面映ゆ気に、はにかんで笑うのだった。
ーあの男さえおらねば---。ー
ともかくも、平和とは言い難くも兄弟の穏やかな時間は続いていく筈だった。
ー九神直義め---。ー
幸隆は、両の拳を強く握りしめ、鷹垣城のある南の山塊を睨み付けた。あの山の彼方に囚われた愛しい弟、あの花のごとき微笑みを奪われた己れの不甲斐なさをどれほど悔やんだことか。
ー必ず、取り戻してやる。ー
オダマキの薄紫の花が咲き初める頃だった。
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