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第12話 忍び草

 カサリ---と窓の外で音がした。  夜半過ぎ、今宵は直義は戦の陣中にある。  頼隆はあたりに人影が無いことを確かめて、そ---と窓際に寄った。影がひとつ、過った。ほんの少し窓を開け、独り言のように呟いた。 「トビか--」 「御意」  微かな声音が応えた。 「兄上に遣わされたか---?」   トビ、というのは白勢の忍びだ。頼隆不在の今は、幸隆の采配下にある---はずである。 「殿におかれましては、一刻も早く、佐喜にお戻りめされますよう---」  頼隆は思わず苦笑した。殿---などと呼ばれるのは何時ぶりだろう。囚われてから、かれこれ一年になる。いや、もっとかもしれない。季節の移ろいは庭先の草木で知ることは出来るが、あまり気に留めることも無かった。 「救い出しに来た、か---。」 「先だってより、幸隆さまに仰せつかっておりましたが、なにぶんにも---」 「致し方あるまい。」  夜にはたいがい直義がいる。夜明け近くまで同衾しているのだ。近寄れば露見する。かといって、昼間は見張りが厳しい。 「不甲斐ない主で済まぬな、トビ。」 「殿---。」  それは本音だ。繋ぎを取るために先頃から様子を伺っていたなら、常日頃の有り様は、とうにわかってしまっているだろう。 「頼む、兄上には---」  報告はされたくない。知ってしまったら、あの兄は、とてつもなく苦しむに違いない。 「無論、にございます。」  忍びは、一段と声を潜めた。 「今宵は、直義どのはご不在にて---。」 ー逃るるには、またとない好機---。ーと忍びは、踏んでいた。が、頼隆の答えは、異なっていた。 「済まぬが、我れは行かぬ。」 「殿------。」 ー何ゆえ---ーそう言いたげな影に頼隆は呟くように言った。 「ここから、密かに出でて、後をどうする? 今の九神の勢力に、白勢が勝てると思うか?」  怒らせれば、即座に、ひとたまりもなく潰される。それでは、この屈辱を堪え忍んだ意味がない。何より兄の生命を危険に曝すようなことは出来ない。 ー我れが此方にあれば、佐喜は、白勢は、兄は守られる。それに---ー  佐喜には、もう自分の還る場所は無い。 当主は兄、幸隆で良いのだ。自分にはもう領主たる資格は無い。男の『妾』となった自分に治められる国は、無い。 「殿---。」 「案ずるな。我れは我れの力で、堂々とここから、出る。」  頼隆は、ぐ---と顔を上げて、自らに言い聞かせるように言った。 「兄上には、我れを信じて、今しばしご辛抱を---とお伝えせよ。」 「は---」 と、忍びは頭を下げた。 「では、行け---。」 言ったが、影は動かなかった。 「トビ---?」 「我ら忍びは、殿の直臣。少しもお力になるなら---」 「そうか---」 白勢の忍びは、当主の直臣。トビの言葉は、幸隆がまだ、『当主代行』に留まっていることを示していた。 ー兄上---済まぬ---。ー  その思いに、有り難さに涙が出そうになった。ーだが、戻れぬ。戻ることは出来ぬ---。ー  頼隆は唇を噛みしめた。そして窓の外に控える忍びに、ひそ---と囁いた。 「ならば、頼みがある。」 「何なりと---」 「諸国の情勢を、集めてくれ。出来るだけ詳細に。」 「は---」 「それと---」 頼隆は、小さいが、力を込めた声で言った。 「兄上に伝えてくれ---。白勢をお頼みもうす---と。」 「御意。」  何やら察したらしく、忍びは、深く頭を下げて、消えた。  ふと見ると、窓辺に、小柄が一振り、残されていた。紫檀の柄に鈴虫と露草が彫られたそれは、幼い頃に頼隆が欲しがった、幸隆愛用のものだった。いつも幸隆の刀の鐔に差してあった。竹トンボを削る手元を見つめる頼隆の視界の中で幸隆が微笑み、露草の葉が揺れていた。  じっと見つめる頼隆の眼から、涙が一筋、こぼれた。  どこからか、虫の音が幽かに聞こえてきた。  それは、とても寂しげに澄んで、いつまでも頼隆の心から消えなかった。  直義が戦から戻ったのは、その三日後だった。勝利の宴の喧騒が、大広間のあたりから聞こえてきた。頼隆は、湯に浸かって早めに寝すむことにした。酔った日の直義は、しつこい。さっさと寝た振りをしてしまうに限る。  近習の少年を呼ぶための鈴を手に取って、ふと桟敷の人影に気づいた。 「柾木?」 「左様にございます」 顔を上げた柾木の表情はいつになく厳しかった。 「そなたは、宴には加わらぬのか?」 「後ほど参ります。その前に---」  じろっ---と狐目が頼隆を睨んだ。 「懐のものをお預かりしとう存じます。」  ぎくり---として、思わず懐を押さえそうになるのを、なんとか堪えた。 「何のことだ?」 「お出しくだされませ。」 ー誤魔化しは、通じぬ。ーと鋭い眼光が、ますます鋭くなった。 「良いではないか。」 頼隆は、開き直った。 「別に直義どのの寝首を掻こうという気はない。」 「当然でございます。」 柾木は、冷たく言った。 「そんなことで、申してはおりませぬ。」 「自害もいたさぬ。」 反駁する頼隆に、柾木はなおも冷たく詰め寄った。 「なりませぬ。お出しくだされ。」  ふぅ---と深い息をついて、頼隆はしぶしぶ懐から小柄を出して、格子の上に置いた。  柾木はそれを恭しく手に取り、付いてきた近習の少年に渡して、目配せをした。 「小柄の一振りくらい、怖れずとも良かろう。」 「そういうことでは、ございません。」  むくれる頼隆に、ピシャリと言って灰青の狩衣が立ち上がった。 「すぐに湯殿のお支度をさせます、御前様。」  殊更に、語尾を強調して、柾木は今一度、頼隆をじろり---と見た。そして、少年が去ったのを確かめて、ボソリ---と付け加えた。 「密会は、感心いたしませぬな。」  チッ---と、頼隆は聞こえぬように小さく舌打ちした。忍びを支配しているのは、頼隆だけではない---と、灰青の背中が告げていた。  そして、何を告げ口したかは測りようも無いが、その夜は狸寝入りを暴かれて、直義に散々に啜り泣かされた頼隆だった。。

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