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第30話 山吹

「寂しくなったのぅ---」  直義が、頼隆の点てた茶を喫しながら、ぼつりと言ったのは、幸隆の葬儀が済んだしばらく後の事だった。   直義にとって、幸隆はやはり終生の『恋敵』だった。  亡くなる数年前、正月の宴席でー座興じゃ。ーと言って頼隆に打ち掛けを着せて隣席させたことがあった。  二羽の鶴が雪原で舞う姿を墨一色で描いて、金砂を散らした絵柄で、直義がー正月用にー密かに新調させたものだった。 ー悪趣味だ。ーと当然、頼隆は抗議したが、またも絢姫に負けた。  当時はまだ、頼隆をあまり戦場に出していないこともあり、白勢家の者と、絢姫、柾木以外は皆、側室の『八雲御前』に見惚れるばかりだった。  宴も半ばに差し掛かった頃、その座で、幸隆つぃ---と立ちあがり、ー余興にて---ーと言って、謡曲『井筒」を舞い始めた。 ー筒 井筒 まろがかけにし---ーと詠われるそれは、旅の空で今は遠くにいる幼なじみを思う舞だった。直義がむ---と眉をひそめていると、曲も半ばに差し掛かる頃、頼隆の『八雲御前』は、つ---と立ち上がり共に舞い始めた。息のピタリと合った見事な連舞いに、皆はーほぅ---ーと溜め息を漏らし、称賛した。が、直義だけはひとり憮然としていた。 ーあやつは儂に挑むつもりか。ー と膝を立てかけたが、 ー余興でございましょう。ー  と柾木と絢姫になだめられた。  周囲も、ー妹にてございますれば---ーという幸隆の言葉に、取り立てて騒ぐこともしなかった。  むろんその夜は意趣返しに頼隆をこっぴどく啼かせはしたが、それだけでは気がすまず、後日しつこく『教えろ』とねだり、翌年の正月には直義が頼隆と舞った。  特訓のかいあって前の年以上に家臣達に誉めそやされはしたが、その席に幸隆はいなかった。既に病んでいた幸隆は佐喜の国許で臥せっていたのだ。  幸隆の死後しばらく、頼隆はまともに食事を摂ろうともせず、物思いに耽っていた。 ー身体を壊すぞ。ー と言っても、なかなか言うことを聞かなかった。ようやく吹っ切れたか---と思う頃には次の春が来ていた。 「そなたも---。」  言って、頼隆は床の間に眼をやった。織部の深緑の花差しに小手鞠が一枝、活けられていた。   「この花のような方であったな---」  直義は、ーうむ---ーと頷き、白い可憐な花を見詰めた。  幸隆の死の前年、絢姫が逝った。寒さの厳しい冬の朝だった。長い患いから解放されたその面はとても穏やかだった。 ー絢どの---ー  床から起きられなくなって、もはやこれまで---と悟った絢姫は、枕辺に頼隆を呼んだ。 ー殿を頼みます---。ー  痩せた手で頼隆の手を握った。冷たい、蝋のように青白い手だった。一人娘の菜都姫が傍に着いていた。  絢姫は頼隆が都の土産に買ってきた櫛をとても大事にしていた。 ー嬉しゅうございます。頼隆さま。ー  頼隆が直義に言付けると、絢姫はさっそく頼隆の居室を訪ねてきた。櫛を胸元に抱いて、この上なくにこやかに微笑んだ。 ー貴方さまは、やはり殿の番(つがい)---ー  出棺の折に、柩に掛けられていた打ち掛けは淡い卵色の地に小手鞠が咲き、対の蝶が飛んでいる柄だった。絢姫が一番好きだったものだという。  頼隆はー偶然です---ーと呟きつつ、優しくおおらかに対してくれた夫人を、直義の傍らで見送った。 「絢は、まっこと実の姉のようだった---。儂は絢に育てられたようなものだ。」  ことり---と茶碗を置いて、直義が呟いた。頼隆は黙って茶碗を手に取り、膝元に戻した。  婚礼の夜、ーあなた様に本当に愛する方が現れるまで、傍に居て差し上げます---ーと孤独な少年だった直義に、年上の妻はほっこりと笑んで言った。  その心に別な男がいることに気づくのに、そう時間はかからなかった。その相手は、もうこの世にはおらず、命日になると絢姫が花を手向けながら、そっと涙を拭っていたのも知っていた。それでも、直義の前では終始笑顔を絶やさず、懸命に尽くしてくれた。 「良き妻であった---。」  頼隆は、直義の言葉に黙って頷いた。    直義が人質として城に迎えた他の領主の子女に手を出さなかったのは、この正室への気遣いでもあった。ただひとり頼隆を除いては---。 「絢は、愛しい男に浄土で会えたかのぅ---。」  直義は、惚れた相手が出来た---と言った時の絢姫の顔を思い出した。寂しいような嬉しいような複雑な表情だったが、ー相手は男だ。ーと言った時、その表情は驚きつつも安堵の色を浮かべていた---。 「今頃は、そなたと子らの自慢でもしておろうよ。」  頼隆は静かに柄杓に湯を汲み、二服目の茶を点てた。絢姫が本当は直義を男として夫として慕っていた---と頼隆は言った。 「恋で無うても、愛慕う心は深かったのではないか?」 ーあなた様であればこそ私は直義の妻としてあり続けることができました---ー  絢姫は、そう言って見舞いに訪れる毎に頼隆に手を合わせた。 ーあなた様が私を守って下さったのです。ー  たとえ褥を共にしようと、どれほど求め合おうと、男である頼隆に子は出来ない。  しかし頼隆には自分が果たし得ない、夫の天下への夢を共にすることが出来る。頼隆が夫と産み出すのは『新しい世』だ。  絢姫は、だからこそ頼隆と直義が共にあることを希んだ。頼隆に直義を託し、天下を託した。彼女の望みどおり、今、直義は他の『女』に奪われることなく、天下をも目前にしている。 ー大きなお人であった---。ー  ほほほ---と微笑む、ほっこりした笑顔が脳裏を過った。 「そなたという夫と添えて、絢どのは幸せであったと思うぞ。」 頼隆の言葉に、直義はほぅっ---と息をついた。 「---絢には、お前は今ひとりの弟だったやもしれぬぞ。」 「弟?」 「嫁を持たせてやれ、と随分言われた---。あの才を継ぐものがいないのは惜しい---とな。」 ーご寵愛もご執心も分かりますが、それ以上の『絆』がおありではございませんか。頼隆さまが、一度くらい女と褥を共にされたからとて揺らぐようなものではありますまいに---。頼隆さまのお子を残されることを考えても---。ー  山吹の花房を直義に差し出して言った、という。   頼隆もこれには苦笑するしかなかった。 ー実のひとつだに 無きぞかなしき---か。ー  絢姫は、直義の子と頼隆の子が手を取り合って『次』の世代を紡ぐことを望んでいたのかもしれない。 ーだが、それはできぬ。---ー  「我れの血は残せぬ。我れの残す実りは、そなたの『天下』だ。」  頼隆の心に迷いはとうに無かった。 ー呪わしい血は、断つ。それが世のためだ。ー 「そうだ---な。」  直義にはその意志を変えることは出来なかった。変えたいとも思わなかった。 ーたとえ女であろうと、儂以外の者が頼隆に触れることは赦さぬ。ー  直義は、ふ---と息をつき、庭先に目を移した。   「失礼つかまつります」 茶室の外から、声がした。低めの掠れた声だが、柾木よりはやや高い。 「柚葉か---」 頼隆が声をかけた。  「軍義の用意、整ってございます。」 「うむ。程なく参る。」 「は---」  一礼をして、足音が遠ざかっていった。  直義は足音のほうにチラ---と視線を走らせた。 「柾木とあれが兄弟であったとはのぅ---。何故わかった?」  頼隆は二服目の茶を直義に勧めながら、にっ---と笑った。 「よう似ておった故のぅ---。背格好どころか策の立て方も軍の運びも---。何より、吾桑攻めの時の柾木の策に躊躇いがあった。」 「躊躇い?」  頼隆は棗に描かれた二人の唐子を見た。  「邪魔な者は消す---あやつにはそれが当たり前だ。出来なんだのは、何かあろうと思ってな---。」  吾桑攻めの後、捕虜となった柚葉正親は、鷹垣城に送られ、囚われの身となった。 ーせっかく生け捕ったのじゃ、殺すでないぞ。ー  と、頼隆がきつく言い置いていたこともあり、斬首を免れ、鷹垣城の牢に留め置かれていた。 ー肩の具合はどうじゃ?ー  肩のあたりで緩く結んだ垂髪、二藍の小袖に更紗の帯---女のような着流し姿で牢の様子を窺いに来た頼隆に、柚葉は不愉快極まりないという顔をした。  こうして見れば、手弱女とまでは言わぬが、いたって優しげな容姿(なり)で、一見、男には見えない。  だが、その実はなんとも恐ろしい鬼であった。見掛けと実とは違うもの---その事に気づけなかった己れの甘さが悔やまれてならなかった。 ー何故、殺さぬ。ー  柚葉の食いつかんばかりの様に、なんということも無い---と涼しい顔で頼隆は応えた。  ー才が惜しい。ー  頼隆は、牢の前にしゃがみ込み、柚葉の目をじっ---と見た。  ー吾桑にそう深い恩義があるわけではあるまいに---。天下を見たいと願うなら、我らにつけ。ー   柚葉はピクリと頬をひきつらせた。 ー吾桑の殿では天下は取れなんだ---と言うか。ー ーわかっておったであろうに。---あの優男では、いつかは踏みにじられる。ー  我らでなくても、身内にな---ーと頼隆は冷ややかに付け加えた。  にべもない頼隆の言葉に、柚葉は唇を噛んだ。 ー直義になら、獲れると言われるのか?ー ー獲れる。ー  頼隆の眼が、きらり---と光り、形の良い唇が、にぃ---と笑った。 ー我れが獲らせる。それに---ー  頼隆は言いきって、少し離れた場所でこちらを見張っている柾木をちら---と見た。 ーお前の兄が心血注いで鍛え上げた代物じゃぞ、直義は。ー  瞬時に柚葉の目が見開かれた。視線の端で、柾木が凍りついているのがわかった。 ーせっかく兄弟が再び会いまみえたのだ。仲良う手を取って我らに仕えよ。ー  頼隆は立ち上がり、すたすたと柾木の方に歩み寄り、ぽん---と肩を叩いた。 ー肩を壊さぬように撃つのは難儀したぞ。後は任せる。よく話し合え。ー  柾木は頼隆に深々と頭を下げた。  柾木と柚葉は、帝の腹心の武士の家に生まれた。嫡子でなかった二人はそれぞれ幼い頃に養子に出され、先の帝の元で再会して共に働いていた。帝が討たれた時、使いで都を離れていた柚葉はそのまま逃れ、柾木は襲撃からからくも生き延びた。  その後は互いに行方が知れず、死んだかとも思ったし、それぞれに主君を得て奉公に勤しむ身ゆえ、会うことも出来なかった---という。 「やっと会えたら、敵同士ではな---」  事情を知った直義は柚葉の帰参を認めた。柾木が初めて泣いた。 ー幸隆と、兄と頼隆を引き裂いた自分を許してくれるのか---。ー  柄にもなく涙を浮かべ、頼隆に幾度も頭を下げて礼を言う柾木に、頼隆は閉口しつつ、呟いた。 ー我れと兄上は、いつも共にある、敵になどなったことはない。ー  ー兄はいつも自分を支えてくれた。---ー 頼隆はそっと懐を押さえた。初陣の日に兄にもらった揃いの守り札は、今は形見となった。 ー我れは山吹ではない。ー  実りはここにもある---と頼隆は微笑んだ。  柔らかな風が通り抜けた。

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