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第31話 浜木綿
「風が、心地よいのぅ~」
頼隆は、頬を撫でる潮風に目を細めた。
蒼く蒼く、どこまでも続く海原の上に、頼隆はいた。白い波頭が時折、大きくうねる。
「いいだろう、海は。」
野太いが、意外に涼やかな声が答えた。
傍らにいるのは、直義---ではなく、設楽輝信。
比治に向かう船の上に、彼らはいた。
「佐喜にも海はあるが、これほど青くはない。」
「こっちはかなり南になるからな。」
輝信は、腕組みした胸を反らせて、にんまりと笑う。薄い色の髪が陽に透けて、光の粒を纏っていた。
領主だというのに、国主だと言うのに、輝信の上半身は素っ裸だ。袴は麻の粗末なもので、膝辺りまで、たくしあげて縛ってある。筋骨粒々たる体躯は『鬼』の異名に相応しい。剥き出しの背も肩も陽に焼けて赤銅色に照り輝いている。
ーひどい格好だな。ーと頼隆は眉をひそめたが、輝信は気にも留めない、
ー船を操るにゃ、動きやすいのが一番。お上品な格好なんざ、してられねぇのよ。ー
からからと大きく笑って、甲板に踏ん張り、あちらこちらに指示を飛ばしていた。
「頭ぁ~、いましたぜ!」
舳先から呼び掛ける男は、水先案内人。平素は側近として、礼儀正しく輝信の世話をしている。
「いたか!」
輝信が歓喜の声をあげる。
「頼隆、こっちだ。」
輝信の手が頼隆の手を掴んだ。大きく厚い、頼隆の二番どころか三倍もありそうな手だ。
「な、なんじゃ?」
頼隆は、その掌の熱さに一瞬、ドキリとした。顔に血が昇りそうになったが、輝信は構わずに頼隆を舳先近くの甲板に引っ張った。
「まぁ見てみろよ。」
見遥かすと波間に、こんもりとした山のような盛り上がりが、大きくうねっていた。あろうことか、その真ん中から、潮が天高く吹き上がった。
「なんじゃ、あれは?」
目をまん丸くする頼隆に、輝信は得意満面に笑って、言った。
「鯨だ。デケぇだろ?」
直義の元に輝信が訪れてきたのは、十月ほど前のことだった。七瀬が九神に降り、北の村澤の制圧もなった。その恩賞と、七瀬より南、十葛(とおかずら)への派兵についての相談のためだった。
「十葛は七瀬よりでけぇ島だ。その名のとおり、十の氏族がいた。今は、夏葉(かよう)が勢力を奮ってるが、風縫(かざぬい)、真城美(まきび)も侮れない。」
輝信は、絵図を拡げ、島を指しながら、直義達の知らない南の国について、熱心に説明した。
「ふぅむ---。」
直義も頼隆も、さすがに唸った。十葛の氏族が降れば、この日ノ本の国の全ての氏族を従え、実質上のこの国の最首となる。
輝信は、言った。
「まぁ、十葛はこの師畿からも都からも遥か彼方だ。派兵も用意ではあるまい。」
「まぁ、なぁ---。」
確かに派遣する人馬の数、武器を考えると相当な準備を要する。正直、一番頭を抱えるのは、財政を担当する柾木だろう---頼隆は頭を巡らせたが、準備に一年、二年はかかる。
「そこで---だ。」
輝信は、一同を見回して言った。
「この戦、俺に任せちゃくれねぇか?」
「お前に---?」
頼隆と柾木と柚葉は訝し気に輝信を見た。そして、黙って腕組みをして目を閉じていた直義の方を窺った。九神に降ったとはいえ、輝信は七瀬の頭領だ。その勢力は強大だし、十葛と組んで寝返られたら、敵わない。
ーそこまで、信用できるか?ーという不安が四人の頭にはあった。
ややしばらくして、直義が口を開いた。
「任せる。」
その目は極めて静かだった。
「直義?」
頼隆は、不安気に直義を見た。
「輝信、七瀬と箕浦の連中で、いけるか?」
直義は輝信をまっすぐに見て問うた。
「あんたんとこの手も少し借りたい。後詰めで構わんが、七瀬を護るヤツを残さないと、箕浦がちょっかいをかけてくるかもしれねぇ。」
「わかった。」
軍議は、先に輝信が指揮の大将として攻め入り、直義はその後、箕浦の南端、佳眉山城にて総指揮に当たる---という行程で固まった。
七瀬には、白勢政隆と柚葉が控え、頼隆に代わって後方支援にあたることになった。むろん、頼隆も直義の軍師として随行する。
その前に---
「別嬪さん、一度、七瀬に来てくれねぇか?」
「なんだと?」
これには、直義の眉が吊り上がった。柾木と柚葉も眉をひそめた。一番、嫌な顔をしたのは、当の頼隆だった。
「我れに何用があるというのじゃ?」
いやいや---と輝信は、手をかざして言った。
「見せてぇもんがあるんだ。他意は無ぇよ。」
「儂を差し置いてか?」
直義がなおもいきり立ったが、輝信はあっけらかんと一言、放った。
「一緒でも構わんが、九神どの、あんた船は苦手だろ?」
---結局、直義は、一度視察という名目で、七瀬に同行することになったが、船酔いのひどい直義は、都の南、汐入の港から半日の航路で、後を追う形になり、頼隆と輝信は、師畿の港から輝信の艦船で出航した。
「そなたがいらんことを言い出すから---」
出航前夜、直義は褥でとんでもなくしつこかった。
ー不義は許さんぞ。ー
ーせぬ、と言うておるではないか---ー
と言う頼隆を掻き抱き、身体中に口づけの雨を降らせ、蜜が出なくなるまで、いや出なくなってもイカされた。
ー案ずるな。そなただけじゃ。ー
そう言って口づけしても、見送る直義の表情は晴れなかった。
ー直隆も柚葉もいるというのに---ー
ふぅ---と息をつき、昼近くになって船が港を離れるのを心配そうに見送る直義に手を降った。
「嫉妬深いのか、愛情深いのか---
まぁ、仲の良いこって---」
さすがに目の下に隈の出ている頼隆に輝信は呆れたように笑った。
そして、一夜を船中で過ごし、次の朝、七瀬近くの海域に入って、それは現れた。
「あれが、鯨か---!」
ゆったりと動く姿は、山が雷動するようだった。水中から跳ね上がる姿は、そこにいきなり山塊が突き出るようだった。
「如何程の大きさがあるんじゃ?」
目を見開いたままの頼隆に、輝信は可笑しそうに笑って言った。
「そうさな、二尋くらいかねぇ。---肉も美味いんだぜ。」
「食えるのか?」
「勿論。俺達ぁ、あれを獲って食うのが、一番のご馳走なんだ。---まぁ、今日はやらねぇけどな。」
「なぜじゃ?」
「船が違う。」
頼隆達を乗せているのは、六門の大砲を装備した艦船である。鯨や他の魚を取るときには、それ用の船を使う---という。
「いったい、七瀬には、何隻の船があるんじゃ?」
「さあねぇ---もうすぐ港だぜ。」
艀の船が、二隻、三隻---とこちらに寄ってきた。
「頭、お帰りなさ~い。」
よく見ると漕ぎ手の中には女性もいた。これには頼隆も少し驚いた。
「女も舟に乗るのか?」
「比治じゃ、女も漁に出る。ま、近場だけどな。」
ぽんぽん---と頼隆の頭を軽く叩いて、輝信は、艀に乗り替えた。頼隆や直隆達もこれに続く。
「いやま~別嬪さんやね~。頭、どこから拐ってきたん?」
「よせや、ご招待したんだ。観音さまに比治を見せたくてな~」
「あらま。惚れちまって、どっかから拐(かどわ)かしてきたのかと思ったわ~。」
「よせやい。こいつぁ男だぞ。人妻だけどな。」
「輝信!」
女達の軽口に笑って応じながら輝信は、むくれる頼隆を館に誘った。
輝信の館は、師畿や安能の城とは異なる造りだった。高い石垣は無いが、周囲を高い石積の塀がぐるりと何重にも囲っている。
「ずいぶんと頑丈な塀じゃのぅ---」
不思議そうな頼隆に、輝信はあぁ---と頷いた。
「大風が吹くからな。師畿の辺りの城とは勝手が違う。ま、入れ。」
通された屋敷の中は広々として心地よい風が通り抜けていた。庭には見かけない南方の樹木や草木が、鮮やかな色を陽光の下に揺らしていた。
「日ノ本の国とは思えぬ---。」
「ここも日ノ本だぜ。」
苦笑いしながら、輝信は、侍女に二言、三言、言って、どっかと開け放した板の間に腰を降ろした。
頼隆は、勧められた輪座(わろうざ)に座り、辺りを眺めた。風の通りを良くするためか、あちこち開け放たれて、御簾で仕切りを作っていた。
「比治は暑いからな。着替えたらどうだ?用意してあるぜ。」
「良い---。」
とは言ったものの、さすがに厚物の小袖は辛い---。
せっかくだから---と侍女に従っていった先で、頼隆はまた頓狂な声をあげる羽目になった。
「輝信!、なんじゃこれは?」
鮮やかな黄色の地に極彩色で花鳥が、これまた鮮やかな色で描かれている。
「あぁ、紅型(びんがた)ってえんだ。ここよりもっと南の琉球って国の着物だ。あんたに似合うと思うぜ。」
ニヤニヤしながら言う輝信も、よく見ると藍地ではあるが、華やかな模様の描かれた着物を着流している。派手な柄が憎らしいほど、派手な造りによく似合っている。
「女物ではないのか?」
「生憎、ここの奴らはガタイがデカくてね---。まぁ、裾は足りると思うぜ。お袋が着てたヤツだからな。」
ぐ---と詰まったが、袖を通してみると、裾も袖も十分な長さがあり、女物には思えぬ大きさだった。
しぶしぶと着替えて、部屋に戻ると、輝信はご機嫌な顔で、侍女を呼んだ。
すぐに宴の膳が運ばれてきた。新鮮な魚介がふんだんに盛られた膳だった。
「さ、食いな。毒なんか入ってねぇよ。あんたを殺す気なんざ、さらさら無いからな。」
輝信は、南蛮の酒だという赤い酒をギヤマンの盃に注ぎながら言った。
「我れは酒は---」
と断ったが、
「一口くらい付き合え」
と輝信に迫られ、少しだけ口にした。
「甘いな---」
滑らかな口当たりでほのかな甘味と酸味が口の中に広がった。
「美味いだろ?ワイン、てぇんだぜ。果物の酒なんだとよ。」
もう一杯---と勧めるのを断り、膳に箸をつけた。美味だった。
「そなたの母御は、大柄な方だったのだな。」
頼隆の女物の着流し姿に目を細める輝信に頼隆は、若干、不機嫌そうな口調で言った。
「異国の女だったからな。」
輝信は、くいっ---と酒を干しながら言った。頼隆は、少し言葉に詰まった。噂は、本当だった。
「あんたなら、見せてもいいか---」
輝信は、懐から、小さな板を取り出して、頼隆に差し出した。
そこには、一人の婦人が描かれていた。金色の髪、緑色の瞳、彫りの深い顔立ち---日ノ本の婦人とは、全く異なるが、美しい人だ---と頼隆は思った。
「俺のお袋だ。俺が十才の時に亡くなったがな---」
「美しい人だったのだな。」
ふと顔をあげて見る輝信の面には、絵の婦人の面影があった。通った高い鼻や細面な顔立ちがよく似ている---と頼隆は思った。
「ある時、沖合いで南蛮船が難破してな---浜に打ち上げられていたのを親父が助けたそうだ。」
奴隷に売られるところだったらしい---と輝信は言った。輝信の父は、そのまま館に連れ帰り、共に暮らした---という。
「異国のもんだからな---さすがに正妻にはできなかったが、親父の正妻はもぅ亡くなってたから、仲良く暮らしてはいたらしい。」
「そうか---。」
「それでも、国には帰りたかったみたいだが---、海の向こうだからな--。」
「うむ---」
海の向こうどころか、婦人が船に乗せられたのは、故郷から何千里も離れた異国だった---という。それでも、故郷を忘れられず、輝信に一生懸命、異国の言葉を教えた---という。
「話せるのか、異国の言葉が。」
「少しな---」
「それは凄い---。」
頼隆は素直に感心した。そして、輝信の遠くを見るような眼差しに幽かに寂しさが漂っているのを見た。
「しんみりしちまったな--」
輝信は、戻された絵を懐にしまい、いまひと度、盃を干した。
そして、ぽんぽん---と手を叩いて近習を呼んだ。その手には、見慣れない楽器らしきものがあった。
「胡弓---てぇんだ。大陸の楽器でな。ま、余興だ。」
輝信は楽器を手に取ると、ゆったりと弓を動かし始めた。長い指が、しなやかに弦を鳴らす---いつもは無骨に見えたそれが、全く別物のように思えた。
頼隆は、同席の者達もしばし無言で聞き惚れた。美しい、どこか寂しような切ないよ皆うな音色だった。
漂う余韻の中で、輝信が、今一度、盃を干して言った。
「なぁ、頼隆---頼みがあるんだが---。」
頼隆は、一瞬、ドキリとして身構えた。解れていた心を急いで立て直して、輝信を見た。
「なんじゃ?」、
「その---膝枕してくんねぇか?」
「膝枕ぁ?」
想定外の台詞に、頼隆も周囲も固まった。
「なんも悪さはしねぇからよ---。」
呆れたような、困ったような周囲を見回して、輝信は再び口を開いた。
「---いいだろ?」
頼隆は、ふぅ---と溜め息まじりで答えた。
「良かろう---」
静かに膳を寄せ、正座を整え、軽く膝を叩いた。直隆と柚葉は、瞬時、ぎょっとして顔を見合わせたが、主を信じて、他の者は座を外した。
「ありがとよ。」
輝信は、嬉々として頼隆の膝に頭を乗せると目蓋を閉じた。
「そなたも大概、困った男じゃの---。」
呟く頼隆に、輝信が目を閉じたまま、ふふん---と鼻を鳴らした。
「も---か。」
「そうじゃ。」
さわさわ---と南風が木々の梢を鳴らした。輝信が、ふと思い出したように問うた。
「あんたは、直義のどこに惚れたんだ?」
「さぁ---解らぬ。」
「わからん?」
「解らぬ---が、いつの間にか傍におるのが当たり前になってしもうた---。」
「そうか---。俺ではダメか?。」
頼隆の手が、輝信の耳を引っ張った。
「ダメじゃ。」
「なぜ?」
「男はいらん。あれ一人で十分じゃ。お前は死んでもらっては困るゆえ、おかしな気は起こすなよ。」
「ほぅ---、俺が必要と言うか?」
輝信の手が、膝頭を撫でるのを、頼隆は、ぴしり---と叩いた。
「我らの天下に、そなたは必要なのじゃ。その後のためにも---な。」
「あんたと直義の天下---か。」
「そうじゃ。」
輝信は、深く溜め息をついた。
「俺と組んでくれりゃ良かったのに---。」
「御免蒙る、---それに宿命(さだめ)が違う。」
「宿命(さだめ)---か。」
輝信は、そのまま、うとうとと眠りに落ちていった。静かな寝息を確かめて、頼隆は輝信の髪をす---と撫でた。
「後を---頼む---。」
見上げる頼隆の目に中天の南にひときわ明るい星が輝いていた。
--------
翌朝、遅れてきた直義は、頼隆と輝信の間に何も無かったことをよくよく確かめて、ようやく安堵の域をついた。が、膝枕の一件を後日、漏れ聞いて、予想通り不貞腐れた。
『儂はしてもろうたことが無い!』と怒るのをなんとかなだめながら、
ー帰りしなに唇を奪われたとは、絶対、こやつには言えぬな---。ー
と改めて思った頼隆だった。
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