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第34話 風花~追憶~
その日、都の空には風花が舞っていた。輝信はひとり都の土御門邸を訪れていた。
長年連れ添った妻を亡くして間もない老人に惨い報せを伝えねばならない。これ以上無いほどに心が重かった。
ー因果な役目だよな---。ー
風に舞う真っ白な雪を傍らに眺め、重い溜め息をついた。
通された奥座敷は深閑と静まり、全てが気配を殺しているように思えた。
「お待たせいたしましたの---。」
主の声に輝信は深く一礼し、頭を上げた。灰鼠色の直衣に生成の袴---服喪の支度で現れた老人に、輝信は言葉を失った。差し向かいに座す二人の間に長い沈黙が流れた。
「本日は、大夫さまにお知らせせねばならぬことが---。」
意を決し、言いかけた輝信を老人の静かな声音が制した。
「みなまで仰せられますな---。」
平伏する輝信を慰め、労るように老人は、言った。
「弥一郎どのは---逝かれましたか---。」
輝信は大きく目を見開き、老人を見た。
「何故---誰ぞが報せに参っておりましたか?」
輝信の問いに、老人は小さく首を振った。
「土御門の者の性---にございます。」
はっ---として輝信は老人の顔を見た。この世ならぬ者を見る---その『血』の性が、老人の面を憂いに深く沈ませていた。
「今少し、この世に留まっていて欲しいと願うてはいたのですが---。」
老人はぽつり---と呟いた。
「あの子は、その宿命(さだめ)を選びはったんどすな---。」
「宿命(さだめ)---と仰せになりますか---。」
頼隆の死は、謂わば殉死---。輝信には『心中』としか思えなかったが---いずれにせよ寿命がそこにあったわけではない、と思っていた。
老人は口調を変えるでもなく、淡々と続けた。
「我れは---、叶うことなら生きて欲しいて思うてました。輝信はん、あなた様と共に歩む道を選んで欲しゅう思うておりました。」
「儂と---ですか?」
老人は深く頷いた。
「弥一郎どのも、土御門の者---。先見の力を持っておいではりますゆえ---。九神はんのお命が長うないことは知ってはったんどす。」
輝信は返す言葉を失った。比治を訪れていた時、夢うつつのなか、頼隆の膝枕で聞いた、呟きが甦った。
『後を頼む---』と、
『お前に死なれては困る。』と、
頼隆はひそ---と囁くように言っていた。
ーあれは---。ー
現状での戦略の低下を危惧してのことと輝信は思っていた。
ーあの時から既に後事を託すつもりでいた---というのか。ー
あの日の頼隆の微笑みが甦る。穏やかな、優しい笑みだった。
「弥一郎どのは---。」
老人の声に輝信は、ふと我れに還った。
「言うておられました。我らは、先駆けである---と。」
『天下は---、いずれ輝信が治めてくれましょう。』
過日、土御門邸を訪れていた時、頼隆は少し寂しそうに微笑んで言っていた---という。
『我れは---、直義と共に見守ります---。』
『あんたはんは、それでええんか?』
と尋ねる老人に、頼隆は、無言で微笑んでいた---という。
「そんな---。」
輝信は言葉に詰まった。
ー直義が病に倒れることを知り、共に逝く覚悟を決めていた---というのか。あの時、既に---。ー
「儂が---、頼隆どのを比治に招いた時に奪っていたら---宿命(さだめ)は変えられたのでございましょうか---?」
絞り出すように、すがるように問う輝信に、老人は哀しげに首を振った。
「我れには、分かりませぬ。選ぶのは弥一郎はんにござりますよって---。ただ、我れは、本心を言えば、それを願うておりました。生きる道を選んで欲しかった---。なれど---。」
「なれど?」
「土御門の者が生きるには、超えねばならぬ試練も多うございますゆえ---。」
「鬼の『血』にございますか?」
老人は頷いた。
「我れは、はや卆寿---と言うたら、信じられまするか?」
輝信は息を呑んだ。おっとりとした穏やかな様はそれなりに年輪を経たものとは思っていたが、大方が還暦に到るにも稀なこの時代に、なんと---と驚いた。そればかりではない、髪こそ真っ白ではあるが、肌の色艶、張り---は巷の老人とは比べものにならなかった。
「鬼の『血』---と申すよりは、この世ならぬ者---と言うべきでしょうか。その『気』を制することさえ出来れば、不老を保つこともできるのですが---。」
大夫は寂しそうに言った。
「それ故に、こうして孤独に耐えねばなりませぬ---。」
「大夫どの--。」
「九神どのが弥一郎どのを連れていかはったのも、弥一郎はんが九神どのと共に逝くことを選んだんも、弥一郎はんが長い月日を独り、取り残されねばならぬ不憫をあわれと思うが所以と我れは、思うております」
輝信は大きな溜め息をついた。
「そうまで、共にありたかったのでしょうか、頼隆は。直義どのと---。」
「それは、我れにはよう分かりませぬ。」
大夫は遠い眼差しで言った。
「ただ、弥一郎はんは、この世で『番(つがい)』に巡り会うてしもうた---。同じ男(おのこ)であっても、互いに寄り添い一つの存在となることは不可能ではありませぬゆえ---そうなってしもうたら、離れることは半身をもぎ取ることに等しい----。」
「頼隆どのは、それを知っておいでたと---?」
「それは、我れには分かりませぬ。なれど--」
大夫は庭先に目を移した。南天の枝の下から雀が二羽、こちらをじっと見詰めていた。
「弥一郎はんも土御門の末裔(すえ)。朧気ではあっても、自分の宿命(さだめ)を知らぬわけにはいかなかったのは、確かでしょう。」
大夫は、生前、屋敷を訪れた孫が、溜め息混じりに微笑していたことを思い出した。
『最初は---これが我が宿命(さだめ)かと、誠に死にたくなりました---。なれど、あやつの腕に囚われたことで、大いなる夢も見、人の世の大事なることも知りました---。宿命(さだめ)とはそのようなものなのでございますな---。』
その笑顔は、まさしく菩薩のようであった----と。
「弥一郎はんは---。」
大夫は、輝信をゆっくりと向き直った。
「皆に良うしてもろうて、愛しんでもろうて、幸福やと言うてはった。---それを九神はんが気付かせてくれて、教えてくれた---言うてな。」
「は---。」
完敗だ---と、輝信は思った。直義の得意げな顔が目に浮かんだ。が、不思議と腹は立たなかった。
ー夜叉を菩薩に変えるには、俺はやっぱり器が足りねぇなぁ---。ー
苦笑する輝信に、大夫がつ---と膝を寄せた。深い眼差しがじっと輝信の目を見た。
「天下を、頼みまするぞ---。」
その声に、眼差しに頼隆の笑みが重なって見えた。
一面、真っ白な空から、ひたすらに風花の舞い落ちる朝であった。
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