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第1話 釣られたヴァンパイア

 月森(つきもり)(あまね)は、吸血鬼の末裔である。    『養父』のもとを逃げ出してからおよそ半月。一滴たりとも血液を口にしていない。毎日のように血液を欲するわけではないとはいえ、さすがに半月は長すぎた。通常の食事では満たされない飢餓感は、ひりつくように耐え難い苦痛だ。 「はぁ……はぁ……」  ついさっきまで、夜の繁華街を歩いていた。深くかぶったフードの下で目を光らせ、襲えそうな人間を探していたのだ。だが、若者、サラリーマン、学生……雑多な人間が行き交う騒々しさで、頭はがんがん痛むし目はチカチカするしで、吐き気がひどい。  音だけではない、人工物の放つ匂い――排気ガスや香水などの匂いだ――で嗅覚までイカれてしまい、にっちもさっちもいかなくなってしまったのである。 「くそ……なんで俺がこんな目に……」  憎々しげに呟く周の瞳が、ネオンを受けて金色にきらめいた。          +  かつて、この世界には数多くの吸血鬼がいた。  日本も例外ではない。特に、第一次世界大戦頃からは、日本でも吸血鬼による残忍な事件が増え、人々を恐怖に陥れていたものである。  戦争の混乱に乗じて人を襲い、僻地の村を滅ぼすこともあった。また、彼らは戦地であろうと関係なしに現れては、血気盛んな兵士たちに牙をかけ、肉体を弄び、死に至らしめると言うおぞましい行為に明け暮れていた。  だが、人間もただやられているわけではなかった。  魔女狩りならぬ吸血鬼狩りが各地で勃発し、吸血鬼はあらかた駆逐されたという記録が残っている。  時は世界大戦中だったが、人は人間同士殺し合うことをやめた。手にした小銃に銀の弾丸を籠め、吸血鬼たちを打倒の対象としたのだ。  そうして、野蛮な吸血鬼は滅びた。  だが、細々とその末裔が生き延びている――というのは、今もまことしやかに囁かれ続けている都市伝説のひとつである。  『窓を開け放って寝ていたら、首筋に牙の跡があった』だの『家畜が血を抜かれた状態で死んでいた』だの『暗闇を駆け抜ける、赤い目をした人間の写真が撮れた』だのと、眉唾な情報がバラエティ番組で流れることもしばしばだ。  周はまさに、その吸血鬼の末裔である。     +  ふらふらと街を離れ、あてどもなく夜の街を歩いていると、唐突にネオン街は途切れた。  ひどく暗い道だ。住宅地を抜けると公園があり、いかにも物騒な雰囲気である。  だが、静かだ。周はようやくひと心地ついて、フードを外して深呼吸をする。闇に溶け込むかのような黒髪を軽く振り、猫によく似た大きな目で、周は辺りを見回した。  秋の夜の、しんと冷えた風の匂いが鼻腔を清々しく洗い流してゆく。すると。 「……ん? ……この匂い……」  再び鼻が効くようになった周は、ふんふんと鼻をひくつかせた。  ――血の匂いだ……。しかも、たくさん……。  ヒトの血液の匂いがする。しかも、ちょっと切り傷から滲みました、という程度のものではない。肉体から夥しく流れ出し、空気に触れた後の血の匂い。広範囲に飛び散っているのか、拡散され、様々なものと混ざり合った匂いの粒が、この付近一面に薄く漂っているような……。  ――なんだなんだ? まさか、殺人現場的なものか? でも、死体の匂いはしないし……  ということは、大怪我をした人間がこのそばにいるということだろう。こんなひと気のないところでどう大怪我をしたのかは知らないが、周にとっては渡りに船だ。この飢餓感を多少なりとも慰めてもらうにはちょうどいい。吸血欲が、むくむくと湧き上がってくる。  目を閉じて匂いのする方向を確かめると、周は軽やかに地面を蹴って走り出した。  ヴァンパイアの身体能力は人間を遥かに凌駕する。目の前にある二、三メートルのフェンスなどは、たやすく飛び越えることができる。  時刻は午前零時が近い。あたりを歩いている人間の気配はない。  無我夢中で血の匂いを追い、たどり着いた場所は、鉄筋コンクリート造りの建物だった。五階建のシンプルなビルで、周りはきれいに剪定された樹々で囲まれている。電気がついている窓はなく、どこもかしこもしんと静まり返っていた。  見上げると、ひらひらとカーテンが翻っている窓がある。まるで周を誘うように揺れる、白いカーテンだ。  飢えを刺激する血の匂いはますます濃く、平常心さえも奪っていく。興奮のあまり、頭も身体もじわ……と熱くなるのを感じながら、周はぐっと膝を曲げて地面を蹴った。  難なく開いていた窓に降り立つと、周の鼻腔を、濃密な血の匂いが甘く満たした。はぁ、はぁ、と息が弾んで、犬歯がむずむずと疼き始める。  音もなく室内に侵入すると、部屋の中央に一人の男が倒れ伏している姿が見えた。血の海に倒れた男は長身で、暗がりに沈む黒服を身に纏っている。  脳髄を溶かすような、血の芳しい香り。周の唇からは涎が滴る。飛び散った血を踏むスニーカーのソールが、きゅ、と嬉しそうな音を立てた。 「……ハァ、ハァ……っ、血だ、はははっ……血、ハァっ……」  漏れ出す笑いを堪えることもできず、周は倒れている男の首筋に手をかけた。男は生きている。体温もある。だが、微動だにしない。この男に何があったかなど、周にとってはどうでもいいことだ。  舌を伸ばして、べろ……と男の首筋に付着した血液を舐めた。痺れるほどに美味い。周は鼻息も荒く、無我夢中で男の血を舐めた。普通の食事では癒せない独特の飢餓感が、久方ぶりに満たされようとしている。  男のジャケットの下は薄手のセーターだ。白いうなじが暗がりに浮かび上がるや、周はニタリと残忍に笑った。柔らかそうな皮膚に指を這わせるだけで、うっとりとした気分になる。  そして周は、その首筋に牙を立てようとした。その瞬間――()った!!」 「えっ」  がば、と素早く起き上がった男に腕を掴まれ、ガチャリと手首に冷たいものが嵌められた。  同時にパッと電気が点き、周は目の前で目をらんらんと輝かせている男と、ばっちり視線を交わしていた。  男は、出血多量の割には元気そうである。  だが、床という床にぶちまけられた血液は全て本物だ。いったいこいつは何をしている。  男の顔面はべったりと血に濡れているが、くわっと見開いた目だけはらんらんと輝いて、闇に生きる周でさえも、震え上がってしまうほどの禍々しさであった。  ――な、なんだコイツ……!! 「ッ……フッ、フフフフフ……」  肩を震わせながら低く笑う男の不気味さに、一瞬抵抗の意思を忘れかけていた。だが周はハッとして、大慌てで立ち上がり、その場から逃げ去ろうとしたのだが……。  ツルッ、と血に足を取られて、そのまま顔面からずっこけてしまった。ゴン! という痛々しい音が部屋に響き渡り、周は思わず「いってぇ!!」と叫んだ。 「おやおや、大丈夫ですか? 手ぇかしましょか?」 「うっせぇさわんな!! くっそ……な、なんなんだあんた!!」 「ふふふ……まあまあ、そう怒らんといてくださいな。僕は、君を取って食おうとしてるわけやないんです」 「……はァ?」  お前らを取って食うのは吸血鬼(こっち)のほうだ!! と言い返そうとしたが、手首は手錠で戒められているうえ、気づけば男は、周の目の前で仁王立ちしている。  蛍光灯の明かりを背にした男の顔は逆光になり、不気味さに拍車がかかっていている。長い脚に、黒光りするシャープな革靴。全身黒でキメているせいか、堂々たる立ち姿はまるで悪魔のようだった。  人間を脅かすのが吸血鬼であるはずだ。……だがしかし、周の本能が、この男は何かがヤバいと警鐘を鳴らしている。 「おっ……俺に、な、何しようってんだよ……」 「手荒なことをしているのは謝ります。ですが、ここで会ったのも何かの縁。僕は、君にお願いしたいことがあるんです」 「お……お願い?」  どこからどう見ても、全くもって人にものを頼む態度ではない。  男はジャケットの内ポケットから白いハンカチをサッと抜き取ると、血塗れの顔をごしごしと拭い始めた。まっさらにきれいになるわけではないが、少しずつ男の顔があらわになる。  やっていることのわりに、顔立ちはなかなかに精悍な男だ。怜悧な目元も涼しげな美形で、黒髪に青い瞳の色が印象的である。どこか異国の血でも入っているのだろう。  だが、感情の起伏が少なそうな、硬質な顔立ちだ。整っているだけに、なんとなく作り物めいて見える。  すると男はスッと跪き、内ポケットから名刺を取り出した。だが、手錠に戒められた手では、名刺など受け取る気にもなれない。周がぷいとそっぽを向くと、男はパーカーのポケットに名刺を押し込みつつこう名乗った。 「礼泉(れいぜい)学院大学薬学部、指定難病治療薬開発研究科准教授の宇多川(うたがわ)真人(まさひと)と申します」 「……えっ? なに、長っ……。教授……?」 「単刀直入に言いましょう。僕は、君の血液……つまり、ヴァンパイアの血液を求めています」 「け、血液……? ヴァンパイアの?」 「ええ、そうです」  柔らかな京なまりのある口調は優しげだが、真上から見下ろす宇多川の眼差しは腹が読めない。周は全身で警戒しつつ、ぎり、と牙を剥いて宇多川を睨み上げた。 「ふざけたこと言ってんじゃねぇよ。俺らヴァンパイアの血を、どうしてお前ら人間なんかにやらなきゃいけねぇんだ」 「おお……」  すると、宇多川はキラキラと目を輝かせ、大きな手で周の頬を包みこんだ。思わず尻を後退って身を引きかけたが、すぐ背後は窓のある壁だ。あっという間に追い詰められて、頬を捕まえられてしまう。 「素晴らしい! これが牙……牙なんやな……! 人間とは思えないこの鋭さ、伝承の通りや……!!」 「ほがッ、さ、さわんな変態!! ぁ、は……ッ」  猫の牙でも触るかのような手つきで、宇多川の親指が無遠慮に牙を撫でる。  初対面の相手にそんなことをされる謂れはない。吸血鬼にとって牙は何より大事な器官であり、とても神経が過敏なのだ。吸血行為中にでもすぐさま異変を感じ取れるように、そうなっているのである。  そして周は、とにかく牙が敏感で……つまりは性感帯なのだ。 「さわっ……んなぁ……っ、ん」 「……」  腰が砕けそうになり、ふにゃりと情けない声が出てしまう。……数秒後、周はハッとして、バッと荒々しく宇多川の手を払いのけた。 「だからさわんな変態!!」 「……ほほう、興味深い」  むくれてそっぽを向く周を、宇多川はしげしげと見つめている。周がギロリと睨みつけると、宇多川はにぃ、と唇を歪めて、笑ったような顔をした。 「とりあえず、場所変えましょか。ここは学生たちに片付けさせますんで」 「……ど、どうするつもりだよ、俺を」 「さて」  宇多川は立ち上がってジャケットの襟を正すと、乾き始めた血糊で乱れた前髪をかきあげた。 「この罠に釣られたということは、君はそうとうな飢餓状態や。ちゃいますか?」 「えっ……そ、そんなことねーし」 「僕の血、吸ってもいいですよ?」 「……はぁ?」  宇多川はシャツの襟を開いて、少し首を傾けた。とくとくと脈打つ白い首筋と、綺麗な線を描いている鎖骨を見せつけられ、周はごくりと喉を鳴らした。忘れかけていた飢餓が、ふたたびじりじりと喉を、身体を、焦がし始める。 「血……を」 「欲しくないですか? 新鮮な生き血が」 「ふ……ふざけんな。誰が、あんたみたいな変態の血なんか……」 「じゃあいらないんです?」 「い、い、いいらない、とは言ってない!!」 「何があったかは知りませんが、その目の下のクマといい、薄汚れた着衣といい……何か事情がありそうですし。僕の生き血と当面の寝床で、僕の話を聞いてはもらえませんかね?」  喉が乾いて、喉が乾いて、仕方がない。ひゅー、ひゅーと喉が鳴り、牙に変化(へんげ)したままの犬歯がじくじくと疼いている。  ――ほしい、ほしい、ほしい、ほしい、ほしい……  ヴァンパイアの本能が、周の判断を鈍らせる。こんなあやしい男、絶対に関わってはいけないと分かっている。だが……。 「……わかったよ! ……だから、はやく……早く血を飲ませろよ!!」  喉を押さえ、牙を剥きながら周がそう喚くと、宇多川はきれいな唇を半月状に吊り上げて、「ほな、いきましょか」と言った。  悪魔と取引した気分だった。

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