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第2話 初めての吸血行為
「わぁ〜……」
宇多川の運転によって連れてこられた場所は、平屋建ての広い広い豪邸だった。ぐるりと敷地を囲む生垣はきれいに整えられ、垣根に沿って品よく並んだ照明の具合など、まるで高級旅館のような雰囲気である。
屋根付きの門を車でくぐった少し先に、シャッター付きの広い駐車場がある。リモコンを操作してシャッターを開け、ぴかぴかに磨き上げられた白いレクサスを、宇多川は滑らかに駐車した。
「うあ……すげぇ。でっかい家……」
「ふふふ、そんな褒めんといてくださいよ。照れるやないですか」
「は? 別にほめてねーし」
「これは祖父から受け継いだ財産のひとつでしてね。ひとりやから管理が大変なんです」
「……ふーん」
秘書とか爺やとか、お手伝いさんが二十人くらいはいそうな雰囲気なのにな……と思いながら、周はピカピカに磨かれたフローリングの廊下を進む。
前を歩く宇多川のすらりとした背中を見上げながら、周はさっきから気になっていたことを尋ねてみた。
「自分から生き血を啜らせようなんて人間、初めてなんだけど。どういうつもりだよ」
「それはね、何がなんでも、僕の研究に協力してほしいからですよ」
「その研究って……何? 俺の血を使うとか……」
「使うかどうかはまだ分かりません。ただ、君たちヴァンパイアの血液成分について、調べたいことがあるんです」
宇多川はそう言いつつ、周をバスルームへと連れてきた。なるほど、ここで薄汚れた服を脱ぎ、きれいになってこいということ――……。
「え、ちょ、なんであんたまで脱いでんだよ!!」
「僕も血塗れやし。一緒に浴びたほうが経済的でしょ?」
「はぁ!? じょーだんじゃねーんだよ変態!! それにこの、手錠はずせよバカ!!」
「もうちょっとそのままでいてくれますか? 暴れられたら、さすがに僕では敵わへんと思いますし」
「……でも、だから! 一緒に風呂とか……」
「まあまあ、取って食いやしませんよ」
「……ちっ」
バスタブに湯が張られてゆくのを待つ間、周はあっという間に全裸にされてしまった。宇多川も上半身裸になり、シャワーの温度を掌で確かめている。
黒い衣服による着痩せ効果だろうか、蝙蝠のように痩せているのかと思っていたが、宇多川の肉体は思いの外たくましく引き締まり、成熟した男の色香が漂っている。
周は宇多川の行動に身構えながら、こう尋ねた。
「……俺とそういうことしたいから、こんなとこまで連れてきたんだろ?」
「そういうこと、とは?」
「え? そ、それはー……」
「さっきも言ったはずです。僕は、君の血液成分を求めている。吸血行為を許すのは、その対価ですよ」
「ふぅん……」
「まぁ、吸われるとどうなるのかっていう、個人的な興味もあるんですけどね、ふふふ」
「は? キモ……わっ」
だが、宇多川はなんの色気もない手つきで、わしわしと周の頭を洗い始める。まるで絨毯でも洗うかのような雑さである。
「いきなり何すんだよ! 目に入った!」
「ひどい汚れようやなぁ、まるで浮浪者や。君、いったいどこでどんな暮らしをしてたんです?」
「……うっせーな。必死で逃げてきたんだ。行くあてなんかなかったんだよ」
「逃げてきた?」
『吸血鬼の末裔』は希少価値が高く、発見されればすぐに、その筋のコレクターたちの手に渡る。ヴァンパイアは総じて容姿が美しいこともあり、年齢は幼ければ幼いほどに価値は高いのだ。
愛玩動物のようにヴァンパイアを飼うことに喜びを見出す者もいれば、性的な欲求を満たすために、幼いヴァンパイアを手に入れようとするものもいる。または、飢餓に苦しみ、涙や涎をを垂れ流してまで血液を欲する姿を堪能したいがためだけに飼う――という、歪んだ趣向を持つ者もいるらしい。
だが、周の両親は普通の人間で、周自身もつい最近までごく普通の生活を送っていた。
子どもの頃から日光に弱くはあったため、小児科では、軽度の『日光アレルギー』と診断がついたが、全く外で遊べないほどではない。人間に紛れ、学校に通い、友達もいた。ごく普通の、暮らしをしていた。
だが、ヴァンパイアとしての特性が目立ち始めたのは十歳頃だ。
空腹とも喉の渇きとも違う、焦げ付くような飢餓感を感じるようになったのだ。何を飲んでも何を食べても足りず、苛立ちばかりが先に立ち、両親につらく当たってしまうのである。
異変を感じ取った父親に総合病院に連れて行かれた結果、周が吸血鬼であるということが分かったのだ。
大隔世遺伝だった。周の遠い祖先に、ヴァンパイアがいたのである。
そこからは、努めて普段どおりの生活を送ろうとした。さいわい、周は二週間に一度、200ml程度の吸血で飢えは凌げた。あとはこれまで通りの食事を取ればいい。
医療界には、こうして稀に発見されるヴァンパイアを保護する制度と、希望があれば血液を提供するシステムが秘密裏に存在していた。周はその世話を受けるようになり、飢えを満たす手段を手に入れた。
だが、そこから両親との関係がギクシャクし始めた。
特に母親は、目立って周を気味悪がるようになり、周の顔を見ると表情を引き攣らせるようになった。
『私たちに似てないなと思ってた』『昔から、育てにくい子だった』と看護師にこぼしているのを耳にしてしまってからは、いつ家を出ようかということばかり考えるようになっていた。
そうして、中学を卒業すると同時に、周はとうとう家出をした。病院からアルバイトを世話してもらうことになっていたし、なんとか生きていくことはできると思っていた――が、どこから情報が漏れたのか、周は突然目の前に現れたハイエースに押し込まれ、気づけば闇オークションにかけられていた、というわけである。
という話を、周は淡々と宇多川に聞かせてやった。
いつしか、宇多川の手の動きは止まっていて、周の黒髪からは、シャンプーの泡がとろりと流れ落ちてゆく。
「あのさ、流すなら流してくんない? ハゲたらどーすんの」
「あ……ああ、すまない」
しゃわ……と細かなシャワーの飛沫が、周の黒髪を濯いでゆく。宇多川はさっきよりも慎重な手つきになって、周の頭を洗っている。
「……君を競り落とした相手のところから逃げてきた、ということか」
「だってあれ、絶対夜な夜なエロいことされるコースだもん。薬打たれて目隠しされてたから動けなかったけど、俺を買ったオヤジ、車の中でずーっと俺の太腿とか尻とか撫で回して、二、三日風呂入ってなかったのに、ちんことかケツとか舐められて……あーもうこれ絶対やばいやつだって」
「よう逃げられたな」
「まあ、必死だったよ。薬が薄れてきてたから、信号で止まった隙にオッサン蹴り飛ばして、車のガラス肘で割って……で、逃げたんだ」
「なるほど。ヴァンパイアはすぐれた身体能力を持つと聞いたが……そういうことなんやな」
「あんなに暴れたの初めてだけどな」
宇多川が不意に離れたかと思うと、手に小さな鍵を持って戻ってきた。そして無言のまま、かちゃりと周の手錠を外した。
「……すまんかったな。拘束なんかして」
「おー、ほんとだよ」
「それに、君を釣るような真似をしたことも、改めて謝る。……すまんかった」
「いや……まぁ、別に」
ピーピー、と電子音が響き、周はハッとした。湯船にたっぷりと湯が溜まり、あたたかそうな湯気が浴室内を満たしている。
「さ、入り。生き返るで」
「……それより、早く、欲しいんだけど」
「ああ……」
久々の風呂は気持ちが良かったけれど、そろそろ周の我慢も限界だ。さっき血液を多少舐めたものの、そんなものでは飢えは満たせない。徐々に呼吸は浅くなり、ヒリヒリと喉は痛むし、焦燥感にも似たざわめきが、理性をねじ伏せようと暴れている。
目の奥が熱くなり、犬歯がじくじくと疼き始める。
周の表情の変化を見て取った宇多川が、怜悧な目をわずかに見開いた。
「なるほど、吸血欲が高まると、瞳が黒から金色に変化するんか。……きれいやな」
「はっ、かっこつけんな。気持ち悪ぃだろ」
「まさか。縦長の瞳孔といい、金眼といい……実に美しい。君はほんまに、素晴らしいな」
「……。あんたは、キモいね」
周が吐き捨てるようにそう言うと、宇多川はほっそりとした唇を吊り上げて微笑んだ。
「……どこがいいん? ヴァンパイアさんは、どこに食らいついて血を飲まはるんやろか」
「どこでもいい。早く、はやくしてよ」
バスタブの縁から身を乗り出して腕を伸ばし、周は宇多川の腕を掴んで引き寄せた。
引き締まった、硬い腕だ。ヴァンパイアによって、食らいつく場所には好みがあるらしいが、あいにく、周は直接人体に食らいつくのは初めてである。いつもいつも、人目を忍んでこそこそと血液パックに牙を立ていた。のっぺりしたビニールを突き破る感覚では、いつもいつも物足りず、あたたかく柔らかい肌に牙を立ててみたかった。その念願が叶おうとしているがゆえに、まるで初恋のように胸が高鳴っている。
「……初めてなんだ」
「ん? 何が?」
「人、咬むの……」
「へぇ、そうなんや」
宇多川はさも意外そうに目を丸くしている。情けないやら恥ずかしいやらで顔が熱くなるけれど、目の前にぶら下げられた餌から目が離せない。
宇多川の腕にはくっきりと筋状の血管が浮かんでいて、至極魅力的だった。ぼたぼたと涎が滴ってしまう。
――ああ……血だ、血、人間の、血……!
「ここ……咬んでもいい?」
「ああ、ええよ」
「う、ハァっ……ハァ……ッ……!!」
「んっ……」
ずぷん、と牙が肌を突き破る感覚が、生々しく迫ってくる。感覚の鋭敏な牙を包み込む宇多川の肉の感触に、ぞわりと全身が興奮した。熱くて、やわらかくて、筋肉が緊張するたびに牙を締め付ける……それは、目もくらむほどの快楽だ。同時に口内を満たすのは、新鮮な血液の味である。
牙によって傷ついた皮膚から血液が溢れ出し、周は無我夢中でそれを吸い上げた。
血液パックから摂取する萎えた血液とはまるで違う。拍動とともに溢れ出す血液は、それ自体に命が宿っているようだった。あたたかくて、みずみずしい。口内に広がる豊潤な香りとともに、与えられた血液が臓腑に染み渡る。その熱量に、全身がとろけてゆきそうだ。
「はっ……! ハァ……、んぅ……」
だが、なにぶん初めてなので、うまく息ができない。周は一旦牙を抜き、顎を仰いて深く息を吸った。口の周りは血みどろだろう。普通の人間の前で牙を隠しもせずに、本能に急かされて吸血行為に及んでいる。これまでは、考えられないことだった。
「ハァ……っ、ん、んく……ん……」
穿たれた二つの穴からトロトロと流れ出す鮮血の赤だけが、視界の全てを支配している。さらに唇を寄せ、無我夢中で傷口を吸い、宇多川の皮膚を濡らす血液を舐め取った。宇多川の様子を窺う余裕などない。腕にしがみつき、必死で噛み跡にむしゃぶりついた。
「……そんなに、うまいか?」
「……ふぅっ……ン、んく、……おいひぃ、んん、ハァっ……」
「ん……っ」
すぐそばで聞こえる低音の声が、心地良かった。そっと頭を撫でられて、周はようやく、うっとりとした視線を宇多川に向ける。
「……あ」
どこか無機質めいていた宇多川の目元が、かすかに紅く染まっている。噛み跡が痛むのか、かすかに眉を寄せるその表情はどこか切なげで、艶めいて見えた。
ようやく少し我に返ったものの、初めて吸血行為の刺激に酔い痴れて、久々の血の味に目が眩んで、まともな思考などできなかった。しかも、周の半身はぬくもった湯の中だ。すっかりのぼせてしまったようで――
湯煙にふわふわと混じった血の匂いに包まれながら、周は意識を失った。
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