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第19話 感情の意味

   シャワーの湯を止め、周はふう……とため息をついた。  身体中に散った赤い痕跡や、今もまだ異物感のような余韻を残す下腹に触れ、ゆっくりと息を吐く。 「……エッチ、しちゃった……」  浴室の細いすりガラスの向こうは、真っ白だ。時刻は八時を過ぎており、真人は完璧な遅刻である。が、真人はまだ脱衣所にいて、血や精液で乱れに乱れたシーツを洗濯機に放り込んでいるところだ。  あのあと、いつの間にか二人とも眠りに落ちていたらしい。  周の手を握ってぐうぐう寝ている素っ裸の真人を揺り起こし、大慌てで身支度を整えようとした……のだが。  真人は肩口にひどい怪我を負っている上に貧血気味で、起き上がった途端にふらついて、またベッドに逆戻りだ。青白い顔をしつつ周を見上げ、「元気になったやん」と微笑む真人に対する申し訳なさで、周はすっかりへこんでしまった。  が、真人はもう一度周の手を握り、首を振る。そして、「それはそうと……あの、すまんかった。好き放題、やってしもて……」と逆に謝罪されてしまった。  確かに、昨晩の真人は周以上に獣じみていて、見かけによらない絶倫っぷりには驚かされてしまった。いったい、一晩で何度イかされてしまったのだろうか。……思い出したくもない昨晩の自分の痴態に、周は真っ赤になってしまった。  いつも以上に血を吸われた挙句、あの激しいセックスだ。よく貧血程度で済んだものだと、周は思った。  ほかほかと湯気を纏いながら脱衣所に出ると、真人はもうそこにはいなかった。まだ新品に近いボクサーブリーフに脚を通し、タオルを首に引っ掛けて、リビングに戻る。  すると真人は、ソファで肩の傷を自ら手当てしているではないか。周を見て若干気まずげに身体の角度を変える真人に、周は慌てて歩み寄る。 「俺がやるって! ほら、かして」 「ああ……ありがとう」 「……ごめん。こんな、ひどいこと」 「だから、もう謝らんでいいて。な?」 「うん……」  まるで野犬にでも食いちぎられたかのような、荒れたひどい傷だ。消毒し、大きめのガーゼを押し当ててテープで固定する。すると真人はその上にワイシャツをサッと羽織って、きっちりとボタンを留めた。 「ありがとう」 「ううん。……けど、どうしよう。俺、昨日みたいに真人を傷つけたら……」 「間隔さえ気をつけてれば大丈夫や。それにこのくらいの傷、なんともない」 「……うそつけ。絶対いてーだろ」 「大丈夫、気にせんでいいから。それより君は……どうもないん? その……お尻が痛いとか、そういうのは……」 「えっ? どっ……ど、どうもねーし!! いちいちそゆこと聞くんじゃねーよ」 「すまん……」  ボッと顔が熱くなり、周はぷいとキッチンの方へと逃げてゆく。気を紛らわせるようにコーヒーメーカーにスイッチを入れ、トースターにパンを放り込む。  真人の気配や匂いを感じるだけで、全身がじわりと興奮してしまう。身体に刻み込まれた快楽を思い出し、気づけばぼうっとしてしまいそうになる自分を戒めるように、周はがしがしとタオルで髪を拭った。  すると、すぐそばに真人が歩み寄ってくるではないか。分かりやすく紅潮した頬を見られるのは恥ずかしいし、真人を見ているだけで激しい動悸が治まらない。周は、真人の方を振り返ることができなかった。 「周くん」 「なっ……な、何だよ」 「風邪ひくで。そんな薄着で」 「う、うるせーな。熱いんだもん」 「ほら」  ぱさ、と肩に羽織らされたのは、真人が家でよく着ているパーカーだ。風呂上がりに羽織っていたのか、ほんのりとあたたかい。  真人の匂いに包まれて、また性懲りもなくむらむらと昨夜のことが蘇る。ぎゅっとパーカーの前を閉じ、周はコーヒーメーカーと睨めっこを続けていた。  だが、不意に真人に背後から抱きしめられ、思わず息が止まってしまう。周の濡れた黒髪に頬を寄せ、真人はため息まじりにこう言った。 「あんまり薄着でうろうろされると……その、目に毒やから」 「なっ……なんでだよ」 「また、したくなる……から」 「っ……」  少し掠れた低音の声が、昨夜の、色香溢れる真人の吐息を思い出させる。かっと頬が熱くなり、周はかちこちに硬まってしまった。 「す、すすす、すけべオヤジみたいなこと言ってんじゃねーよ!!」 「す……スケベ親父……」 「そっ……、それに今は、吸血してないんだし! ああ言う時じゃなきゃ、あんただって俺とエッチしたいなんて思わねーだろ!! 俺なんてガキだし、ガサツだし、普段は色気のかけらもねーって、隆太にも路生にも言われるし!!」 「そんなこと……」 「いーって別に! 一回エッチしたくらいで、気ぃ遣って優しいこと言おうとしなくても!」  照れ臭さのあまりそんなことを大声で言い放つと、真人の腕から少しだけ力が抜けた。  自分で言って、勝手に凹む。  そうだ、真人が周とセックスができたのは、吸血時のフェロモンの威力なのだ。  真人は路生を抱けなかった。真人は異性愛者なのだ。なのに、色気もへったくれもない周を抱けた――それは、吸血時という特殊な状況だったからだ。  ――俺だって、そうだ……よな。ああいう状況だったから、仕方なくセックスしたんだ。普段から真人とあんなことしたいなんて、思って……ない……。 「……周くん」 「な……なんだよ」  そっと肩に触れた真人の手によって、身体の向きを変えられる。真人と間近で向き合うことになり、改まって何を言われてしまうのかと不安になった。  しっとりと濡れた真人の黒髪は、艶めいていてきれいだ。かすかに眉を寄せ、伏せ目がちに言葉を選んでいる真人の真剣な表情が、周の不安をさらに煽った。  ――『君の言う通りだ』『昨日はフェロモンにやられてセックスをした』  ――『君に特別な感情はない』  そう言われることを覚悟して、周は俯いた。こんなときだが、隆太の台詞を思い出す。『相手は大人だ』『こんなガキ、相手にしてもらえるわけない』と。  すると視界の中で、真人の手が動き、恭しく周の手を握るではないか。  頼りない周の指を包み込む、大きな手だ。この指先で、この広い(たなごころ)で、触れてもらうのが嬉しかった―― 「僕は……君のことが好きやで」 「……えっ?」  フラれることを前提に覚悟を決めていたのに、聞こえてきた言葉は、周の願望そのものだった。弾かれたように顔を上げて、周は真人を見上げた。 「この前、『愛おしい』とか言うて君には気持ち悪がられてしもたけど……あの日からずっと考えてた。周くんに対する、この感情の……意味みたいなものを」 「意味……」  真人は言葉に詰まりながら、ゆっくりとそう語った。まっすぐに見つめ合ううち、真人の頬がうっすらと赤く染まり始める。そんな小さな変化でさえ気付いてしまうくらい、周も真人から目が離せなかった。 「愛おしいって言うたんは、そのままの意味や。君はまだ十六歳やけど、いろいろ……つらいことあったやろ。でも、それに負けんと強く生きてる。そういうところが健気に思えて、守ってあげられたらええのに……て、思うようになった」 「……え」 「明人を失ってから路生ともぎくしゃくしてもて、人付き合いが煩わしくなって……このまま一人でいたほうが楽やなて思ってた。けど……君がここにいてくれると、すごく楽しいねん。何か特別なことがなくても、君と一緒にいて、言葉を交わしているだけで僕は、何だか楽しくて」  緊張のせいかやたら引き締まっていた真人の表情が、ようやく少し綻んだ。困り顔で微笑む真人を見上げる周の双眸に、涙が滲む。 「吸血鬼の本能のせいとはいえ、君が全身で僕を求めてくれるんが、嬉しかった。誰かの身代わりじゃなく、純粋に僕を欲してくれてんねやってことが。……そら、僕以外にそうできる相手がいいひんっていうのは分かってんねん。でも君は、いつだって僕と歩み寄ろうとしてくれたやろ」 「……」 「僕を信じて、ここにいてくれた」  真人が目を細める。そっと指先で頬を拭われ、周は自分が涙を流していることに気がついた。そっと身をかがめた真人が、唇で周の頬を拭う。 「君が好きや」 「っ……」 「これからも、僕は君のそばにいたい。周くんは……どう思ってる?」  正面から強く抱きしめられ、あとからあとからこぼれ落ちる涙で、真人のシャツが濡れてゆく。  周は震える腕を持ち上げて、真人の腰を抱き返す。そしてぎゅっとシャツを握って、こくり、こくりとうなずいた。 「……ここにいたい、俺。ずっと」 「……そう。そうか」 「でも……いーのかよ。俺、これからだって迷惑かけるかも、なのに」 「迷惑なんて思ったことないよ。それに、生活面では僕の方がよっぽど君に迷惑かけてるやん」  ふふ、と真人が笑う。  キッチンでのドタバタや、不健康な食事風景を思い出し、周もつられて笑ってしまった。ひくひくと泣き笑いをする周を、真人はより強く抱き寄せる。 「ほんとだ……そーかも」 「せやろ?」 「へへっ……血ぃもらうくらいじゃ足りねーかも。真人、全然家事できねーんだもん」 「周くんは器用やし、飲み込みが早いもんな。ご飯も美味しいし」 「そーかぁ? ただ炒めてるだけだし」  他愛のない会話に気持ちがほぐれて、周はひょいと顔を上げた。すると真人は不意打ちのように、周の唇にキスをした。  そして、照れ臭そうに微笑んでいる。 「君と出会って、僕もまた笑えるようになった」 「……あ」 「ありがとう。……何もかも、君がここにいてくれるおかげや」 「そんな、大袈裟……ん」 「好きやで。ほんまに」 「ん、ちょっ……」  啄むだけのキスが、だんだんと深くなる。抱き竦められながら唇を吸われ、あの淫らな舌が下唇をぺろりと舐めて……かくんと膝から力が抜けてしまいそうになった。 「ん、ぁ……ちょ、だめだって」 「もうちょっとだけや」 「ぁん、ちょ、だめだって……まさひと、仕事……って、あっ!! 隆太は!!」 「あっ」  突然現実世界に引き戻されました、という顔をして、真人が素早く時計を見た。そしてやや名残惜しげに周から身体を離し、ごほんと咳払いをする。 「……すまん、浮かれた」 「そ、そう……へぇ」 「すぐ病院へ行こう。桜間君の経過、気になるからな」 「う、うん!」  あっという間に、キリッとした准教授モードに変化する真人の切り替え力に感心しつつ、ふたりでせかせかと朝食を食べる。そこからは、普段通りのドタバタした朝の風景である。  だが、周の心はふわふわと軽い。  秋晴れの大空を美しいと感じることが、ようやく出来るようになっていた。

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