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第22話 壁と恋〈真人目線〉
それからまた一週間が過ぎ、真人はこれまで以上に『Vamp1』の研究にのめり込むようになっていた。
桜間隆太の病状も快方へと向かっている。皮膚移植も無事に終わり、今のところ、再発する気配は感じられない。
期待以上の効果が現れたことで、何としてでも『Vamp1』を治療薬として完成させたいという想いが強くなっていた。だが、『ヴァンパイアの血液』から得られた成分であるということを公表できるわけもなく、真人は血眼になって、『Vamp1』と類似する構造を持つ物質を探した。また同時並行で、人工的に合成しうる方法について模索している最中なのだ。
確実に根治できる物質が手元にあるのに、公表できない――この状況は、予想以上に真人を焦らした。
せめて、この病院にいる患者だけでも治療したいと思ってしまう。……が、こんなことが外に漏れたら、病院に迷惑をかけてしまうに決まっている。
――どうにかできないか、どうにか……。
「……せい、先生」
「……っ、え……?」
突然肩を揺さぶられ、真人はハッとした。
『Vamp1』の研究を、学生たちのいる研究室で堂々と行うことはできないため、真人は予備実験室を占領している。今日も講義と学生たちへの指導を終えた後、こうして夜まで居残りをしていたのである。
「そ、蘇我くん……何?」
慌ててラップトップを閉じ、真人は蘇我に向き直った。いつからここにいたのだろうか。
「何って、先生。ここんとこ変ですよ? こんなとこに引きこもって、一体何を調べてるんです?」
「あ、いや……個人的な研究テーマや。気にせんとってくれ」
「……まぁ、それはいいですけど。ていうか、もう二十一時ですよ。この部屋の延長利用申請、してないんでしょ。守衛室から僕に連絡きたんです」
「え、もう九時!?」
「そうですよ。まったく、こういうことくらい自分で申請してくれないと」
「ああ、すまん。すぐ出る。ていうか、はよう帰らな」
今日、周は一人で留守番をしているのだ。
ここのところ、周はあまり病棟で過ごさなくなった。桜間隆太と何かトラブルでもあったのかと思って尋ねてみると、そういうわけでもないらしい。隆太の肉体の変化について調べたいからと、路生がつきっきりで隆太にくっついているため、遠慮しているというのである。
一体何に遠慮しているのか真人にはまるで見当もつかないのだが、そのせいもあって周が病棟で過ごす時間が減り、自宅で勉強をしたり家事をしたりして過ごすことが増えた。一時期は、周を拉致した人間たちが再び彼を連れ去りに来るのではと危ぶんでいたが、そういう気配は今のところ感じられない。そのため、一人で留守番をさせるようになっているのだが、あまり帰宅は遅くならないよう気をつけている。
「こんな遅くなってしもて……はぁ、今度からアラームつけとかなあかんな」
「ああ〜、周くんが留守番してるからですか? そりゃ物騒な世の中ではありますけど、もう十六歳なんだし大丈夫っしょ。先生って意外と過保護なんですね〜」
「う、うん、まぁ……せやな」
「元気ですか? 周くん。最近病棟の方でも見ませんねぇ」
「まあ、色々忙しくしてはるわ。蘇我くん、病院のほうで周くんに会うたことあんの?」
「え? いや〜……あ、あのほら、大学と違って病棟の中庭きれいじゃないすか。ちょっと休憩に出た時に、チラッと見かけて」
「ふうん、そうか」
曖昧に返事をしながら実験装置やパソコンの電源を落とす。この男は今でも、周のことを気にしているのだろうか……と、若干快くないものを感じつつ、真人は蘇我を促して廊下に出た。
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「お〜、おかえり」
「……ただいま」
せかせかと焦って帰ってきたが、周はのんびりしたものである。
リビングのローテーブルには隆太から借りたという教科書が積み上げてあり、開かれたノートには数式が並んでいる。が、今はテレビドラマを鑑賞していたようで、アイスクリームのカップを手に、ソファの上であぐらをかいているところだ。
「何も変わったことなかったか?」
「うん、ねーよ。あ、今日クリームシチュー作ってみたんだ。けっこー美味いから食べてみてよ」
「ああ、うん。ありがとうな」
ひょいと身軽にソファから立ち上がり、周はスプーンを咥えたままキッチンに入った。真人も手を洗って部屋着に着替え、鍋をかき回す周の隣に立つ。
路生から借りている服はかっちりとした綺麗めなものが多いため、家ではもっぱら真人のTシャツやハーフパンツを好んで着ている周だ。シャツは当然の如くダボダボだし、ズボンは紐をきつく締めて履いている。そういうちぐはぐな格好をしていると、周のほっそりとした身体が余計に強調されてしまうわけで、見るたびにそわそわと落ち着かない気持ちになる。
「……ええ匂いやな」
「へへ、そーだろ。こないだ路生がアプリ教えてくれて、さ……」
「?」
路生の名前が出た途端、周の表情が分かりやすく引きつった。周が病院に来たがらない理由が路生であると、真人はようやく察した。
「また、路生になんか言われたんか?」
「えっ……? いや? 別に?」
「……はぁ。あいつは……」
目を泳がせながらシチューを注いでくれる周から、皿を受け取る。今やすっきりと片付いたダイニングテーブルには、すでにグラスやスプーンが並べてあった。
それを見て、ついつい表情が緩んでしまう。真人がいない間に支度をして、こうして帰りを待っていてくれたのだ。それがすごく、嬉しかった。
「めっちゃ美味しい。すごいやん、さすがやな」
「……へへっ、だろ? 俺、結構料理すんの好きかも」
そう言って得意げに笑う周の笑顔が、むずがゆいほどに愛おしい。
彼が来るまで、このテーブルはいつだって散らかっていて、コーヒーを飲むか、レトルトのカレーを食べることくらいしか用途がなかった。それが当たり前となり、一人で過ごすことに慣れきっていた真人だが、今はこうして、あたたかい食事を作って待っていてくれる人がいる。
真人が食事をしている間は向かいに座り、くつろいだ表情で話をしてくれる――その幸福感に酔いしれかけたその時、真人は気がついた。
「俺だけが幸せになるなんてあり得へん……とかなんとか、言われた?」
「えっ……!? い、いや……」
「図星やな。周くんは、嘘がつけへんから」
「……うー」
シチューを食べ終え、うつむく周の隣に席を移す。そっと肩に手を置いてみると、周は少しばかりばつの悪そうな表情でこっちを見た。長いまつ毛はくるんと上を向いていて、澄んだ瞳をきれいに縁取っている。しっとりとした白い肌と、赤みの強い唇はすこぶる色っぽい。
話を聞こうと思っているのに、周に触れたいという欲の方が強くなる。だが、真人はきりりとした表情を崩さぬよう、「気にせんでいいからな」と声をかけた。
「……うん、そうかもしんねーけどさ」
「治療法は見つかった。明人の死にこだわるばかりじゃなく、その先の手を考える時期に来てる。……あいつにも、そろそろ前を向いてもらいたいところやねんけどな」
「見つかったとは言っても……その原料、俺の血じゃん? 薬として、売れんの?」
「……そこやねんなぁ」
真人は机に肘をつき、ため息をついた。そして、今抱えている問題の諸々について周に一通り語ってみたあと……口をつぐんで頭を掻いた。
「あ、すまん……ややこしい話やったな」
「ううん、いーよ。そりゃさ、100%理解はできてねーとは思うけど、話してもらえて、なんか嬉しい」
「……ありがとう」
気遣いに笑みを浮かべると、周はぽっと頬を染め、立ち上がって逃げていってしまいそうになる。だが真人はとっさに、周の手首を掴んだ。
「な、なんだよ……」
「あ……いや」
吸血時でもないのに、周にべたべたと触れてしまうことに対して、いまだ罪悪感を拭い去れない真人である。交際を始めたとはいえ、相手はまだ十六歳なのだ。しかも真人は恋愛経験が少ないため、こういうときにどう振舞えばいいのかわからない。真人が口を開いたまま言葉を選んでいると、周は怒ったような顔でこう言った。
「だ……だから、無理しなくていーって。別に、普段からそういうことしようとしなくても」
「ち、違うねん、無理してるわけやない! ……どう言えばいいのか、迷っていただけで」
「言う? 何を」
「……」
無言で立ち上がり、真人はぎゅっと周を抱きしめた。
こうして迷わず行動に移す方が、自分には向いているのかもしれないと真人は思った。だがやはり、緊張はする。ばくばくばくと年甲斐もなく心臓は早鐘を打っているが、腕の中にすっぽりとおさまる周の体温良く、何だかとてもほっとする。
「僕はむしろ、普段から、もっと君に触りたいて思ってんねんけど……」
「……えっ」
「君はその……十三も年下やから。あんまりベタベタすんのは、変質者っぽいんちゃうかなて……」
「ふっ……ははっ。なんだよそれ。そんなこと気にしてんの?」
ぎゅ、と周が真人を抱き返す。すりすりと胸元に顔をすり寄せる周の行動は猫のようで、途方もなく可愛い。愛おしさのあまり笑みを溢す真人に、周は小さくこう言った。
「前にエッチしてからずっと、指一本触ってこねーから、やっぱフェロモンがないとダメなのかなって思ってたんだ。……寂しかった」
「えっ……? さ、寂しい……!?」
「そりゃ、そーだろ。毎晩一緒に寝てんのに、真人すぐ寝ちゃうんだもん。疲れてんだろうけど……寝つき良すぎかよって」
「ご、ごめん……」
「いや……別に毎日エロいことして欲しいってわけじゃねーけど……。ハグとか、チューくらい、したいっつーか」
「……っ」
真人は愕然とした。
己の気遣いで、逆に寂しい思いをさせていたなどと、想像さえしていなかった。改めて周を抱きしめ、真人はしみじみと「……かわいい」と呟いた。
「うう……かわいいかわいい言い過ぎだし」
「すまん。……嬉しいな。そんなふうに思ってくれてたなんて」
「……べ、べ、別に……」
照れているのか、周のうなじは熱かった。ほっそりとした首筋に手を添えて、柔らかな黒髪に指を絡める。顔を上げた周の頬を両手で包み込み、真人はそっとキスをした。
一度触れてしまえば、この数日ぐっと堪えていた欲求に火がついてしまいそうになる。唇を触れ合わせ、角度を変えつつ互いの弾力を確かめ合ううち、乾いていた唇はしっとりと濡れ始めた。唇が触れ合うたびに、リップ音が小さく響く。
こうしている時は、周はとても静かだ。だが、時折真人を見上げる大きな目には、はっきりとした熱を感じることができる。
「……好きやで」
「う……うん」
「もう一回……しても?」
「いっ、いちいち許可取らなくても……っ……ン、ん」
舌で唇をくすぐり、粘膜を触れ合わせるだけで、まるでセックスをしているかのように興奮した。ほっそりとした腰を抱き寄せ、さらに深く舌を絡めるうち、周の身体からふにゃりと力が抜けてしまう。
「……っと。どないしたん」
「……どないしんたん、って……ひ、ひとごとかよ……っ」
「え?」
耳まで真っ赤になり、涙目で文句を言いながら周はぷいとそっぽを向いた。
そしてぼそりと、こんなことを言うのである。
「前から思ってたんだけど……真人のチュー、すげぇエロい」
「え……」
エロいと言われることがこんなにも嬉しいということを、真人は初めて知った。
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