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第8話 五条 三

ー弓張月---か。ー  遮那王は、被衣をす---と上げて空を見上げた。かの陰陽博士、安倍晴明が幽世からふらりと現れた夜に言い残した、弓張月の夜になった。 ーそれにしても、真面目な男だ。ー  晴明は、日月を選んで、現世に現れては、都の結界を張り直し続けていた。かの夜もおそらくはその「役目」を終えて幽世に帰る道すがらであったのだろう。   しかしながら、戦乱によって血と怨嗟の染み込んだ都の地を浄化するには、呪法はもはや満足には機能しない。神々の仏の力は、人間の業をこれでもかと塗り込めた都の闇の深淵には及ばない。    殊に五条の橋の袂、鳥辺野に至るこの路には禍物が多すぎる。わさわさと寄りつき、壁のように遮那王の行く手を塞ぐ。遮那王は、懐から龍笛を取り出し、唇に当てた。  すぅ----と息を吸い、静かに笛を奏する。秘曲を奏でる冴えた音色は冷え々とした刃となり、魑魅魍魎を切り裂き、切り裂かれた妖かしは、塵芥と化して風に吹き流されていく。  しかし、それとて、いずれまた凝り固まって、都のいずれかの闇に棲みつき、人の血肉のうちに、じわりじわりと滲み入っていくのだ。 ー業の深いことじゃ---。ー  遮那王は、崩れかけた橋の袂にひそと呟く声を聞いた。生気の無い虚ろな眼で果ての無い闇を見詰めて踞る老人。襤褸布に等しい衣を申し訳程度にまとい、骨と皮ばかりの骸とさして変わらぬ姿に成り果てたその身体を震わせて橋の真ん中の辺りを指差した。  そこには、一体の黒い影が佇んでいた。大きな体躯が橋の中央に踏ん張るようにして立っていた。 ー五条の鬼---。ー  天狗の太郎坊よりは、小さい。が、ゆうに六尺はありそうな筋骨隆々たる体躯が橋を塞いでいた。放たれる殺気は稲妻のように縦横無尽に辺りに飛び散り、その肉体を紅蓮の業火の如き『気』が渦巻いていた。  遮那王は、思わず舌なめずりをしそいになった。逸る鼓動を抑えて、ゆったりと橋の真ん中辺り、仁王立ちする影の脇をすり抜けようとした時だった。 「そこな稚児、待たれよ。」

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