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フリップサイド 3
カバンの中から取り出した鍵で玄関を開けて、ただいまとも言わずに靴を脱ぎかけたら、僕の後ろにいたアキが玄関のドアを閉めるのと同時に「おかえり」と言った。
小さな声だったけれど、それはちょっとくすぐったいぐらい柔らかな響きを持って僕の耳に届いた。
……2人だけの場所にいるんだ。
そう思った。
地下鉄を降りて、駅から家までのほんの数分間、どれだけの人とすれ違ったっけ。お互いのクラスで今日起きた出来事を話したり、石ころを蹴飛ばしたり、空を眺めたりしながら歩いてきた道から、たった1枚のドアを隔てて僕らは今、ようやく2人きりの世界にいる。それを、彼の柔らかな声音が教えてくれた。
自覚してんのかな。2人でいる時にしか、そんな声出さないだろ。たぶん、誰も聞いたことないよな。
彼のスリッパをそろえ「ただいま」と返しながら、
「逆だよな」
と笑った。
アキとタカアキ。僕たちも逆なのかな。タカアキとアキ。
いつものように先に彼に部屋へ上がってもらって、何か飲むものでも持っていこうと思い、
「先に2階に上がって――」
まで言いかけたところで、彼にぎゅっと腕をつかまれた。バランスを崩しかけた体ごとアキの長い腕がすっぽりと包み、制服がぎゅっ、とか、くしゅっとか縮む音がして、抱きしめられていることを必要以上に感じてしまう。
肩にかけていたカバンが滑り落ちるのも気にしないで、僕もアキの背中に両腕を回し、抱きしめ返した。そのまま廊下の壁に背中を預ける体勢になった。
少しだけ腕を緩めて見上げたアキの顔は、僕の目と2センチぐらいしか離れていない近さにあった。
「久しぶり、タカアキ……」
鼻の頭はきりりと硬くて冷たいのに、唇は柔らかく生ぬるい。その温度を自分だけのものにしたくて、思わず開いた唇と唇の間で舌がもつれ合おうとする。
舌を挿れて、そして、ゆっくり動かして。
あぁ。この感触、本当に久しぶりだ。
改めてそう思うと急に心拍数が高くなった気がして、それに気づかれるのがちょっと照れくさくて、彼の顔を見ないで耳元に唇を寄せて言った。
「……何か飲むもの持ってくから、先に行って待ってて」
部屋のドアを開けると、アキは壁一面に貼り付けるようにしてあるレコード棚の前で、1枚取り出してはジャケットを眺め、もう1枚取り出しては歌詞を引っ張り出したりしていた。
父親が使っていた古い本棚を改造したレコード棚は、機能的だけれど見るからにセンスのかけらもない。けれど、今ではそのレコード棚が部屋に4面ある壁のうちの1つを成しているようだった。
ジャケットをショップのようにディスプレイできる棚はしゃれているけど、枚数が収まりきらないし、殺風景なこの部屋には似合わない。
「いちばん最近買ったヤツ、どれ?」
「そこの端っこに置いてる。ノラ・ジョーンズ」
アキはヒューッと口笛を吹くと、こっちを振り返って「俺、まだ聴いてないよ」と笑った。
先週、やっと買ったばかりだ。相変わらずいい声で、一緒に聴けたらいいかもななんてぼんやり思っていたけど、まさかこんなに早く実現するとは。
テーブルに500ミリリットルのペットボトルを2本置いて、彼から受け取ったレコードをプレーヤーに乗せた。
小学校の頃から使っている勉強机とベッドと、小さなテーブル。それに本棚とレコード棚があるだけの部屋で、ベッドに座ったアキの膝と隣り合うように、僕は床に座りベッドにもたれた。
「なんかエロいな、このベースの音。ていうかさ、この人の歌ってこんなエロかったっけ?」
「何て歌ってるか、わかるのか?」
彼は、口に含んだ水を噴き出しそうな勢いでプハッと笑いながら、「わかんない。適当」と言った。
「なんか声が色っぽくなってない? 前のヤツよりも」
前のヤツ。そんな細かいところまで憶えてないって。それよりもだな、
「君、さっきから『エロい』とかそればっかり言ってる」
さっきみたいに笑って返すのかと思いきや、彼は何も言わなかった。言わない代わりに、何気なく彼の膝にだらりと乗せていた僕の左腕をとらえ、見上げた僕の顔をじっと見ながら、
「だって、それしか考えてないから」
それだけ言うと、こっちに来いとでも言うように僕の腕を引っ張り上げようとした。
彼の手が僕の肩に触れ、唇と唇を重ねたまま、もう片方の彼の手が僕のシャツのボタンをひとつずつはずしていく。そうしてシャツを脱がせると、彼は僕の身体をベッドに横たえ、こめかみのあたりに唇をつけた。そこから耳たぶまで唇でたどりながら、僕の体温を確かめるように薄っぺらい胸を撫でていく。その掌の温かさと滑らかな感触に、身体が波を打つ。
「いつもの、見せて」
僕がそう言うと、彼はふふん、と笑い、僕から体を離して上体を起こした。
僕は、彼がシャツのボタンをひとつずつ外していくのを眺めるのが好きだ。
僕から1ミリも、一瞬も視線を逸らすことなく、上から下へ、時には下から上へ、ひとつずつボタンを外していく。その所作と、少しずつ彼の肌が露わになっていくさまは、僕をこの上なく興奮させる。たまらない。
さっきまで制服のきしむ音がしていた背中に指をめり込ませる。
男と女だって同じだ。
「好きだ」って簡単に口にできるほど恋愛上級者ではないけれど、2人が同じ部屋にいて、目と目があったらどうするかなんて、いちいち言葉にして確かめなくたっていい。
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