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第二部「階梯と車輪」4
依頼人の職業や何かを、わたしは基本、記録に残さない。名刺は頂戴する。が、こちらから連絡をとることはない。ただし、忘れない。そのひとのことは。
わが師の祖父は一万を超す人物に夢を饗したと謳われたが、そのすべての依頼人をことごとく憶えていたという。もはや伝説と化した偉業ではあるが、数はともかく同様に、わたしも彼らを忘れないと断言できるような気がする。
だが、そのひとを忘れないと今わたしは口にしたが、わたしはそのひとのいったい何を憶えているというつもりなのか。名前は忘れる。忘れることにしているし、それが本名だという保障さえない。姿形、表情。それは留めてあるが衣服はなおざりだ。声の調子、話した言葉。それらは断片的に、またはだいたいのところを。語句のすべてを浚えるわけではない。とすれば、ともに「夢」について向き合ったその出逢いのひとときを、たんに「そのひと」と言っているだけのことなのだ。
では、他のひとについてはどうなのだろう。いっしょに過ごした時間だけを憶えていたとして、それが何になるのだろう。好きな食べ物を、映画を知り、どういう声をして、どこの出身で……
わたしは、いったい何を知っているのだろう。
好きだと、言われていない。あのあとには一度も。
ホテルで、彼を見かけた。連れがいた。わたしが見たこともないような美形。彼らふたりの席だけ、周囲から浮いていた。気もそぞろなわたしに依頼人は怪訝な顔をして訳をたずねたが、何もこたえようがなかった。
そもそもこたえなど、ある筈がない。
冷静にそう判断を下し謝罪を述べる意識化に、彼への不審と憤りが横たわる。それはすぐさま酷い自己嫌悪へと形をかえた。
「知り合いでも?」
依頼人の問いには苦笑で頷く他はない。視線の行方を覚られたのはこちらの未熟なのだから。
「あれは、目立つね」
依頼人はわたしの同意を確かめることなく、メニューを開かずに給仕をよんだ。かわされる会話を聞かぬふりをするのが今度はこちらの礼儀となった。ひとりで食事をするのが嫌いだと呟き、胃をやられてから食が細くなってしまったが、君は若いのだから食べるだろうと目を細めた。
「酒は?」
「御酒(ごしゅ)は遠慮いたします」
「飲めると聞いているが」
目じりをさげたままのぞきこまれるように問われた。わたしはまたしても首肯するより他はない。
「では、付き合いなさい」
前金で相場の倍近い額が振り込まれている。さらにホテルの宿泊費と食費。断る理由がない。
「頂戴します」
運ばれてきた食前酒。グラスを掲げたときに彼を忘れた。忘れられた。わたしは至極、安堵した。
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