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第二部「階梯と車輪」8

 彼女のアパートの玄関前に「標し」を立てた。視界樹の黄金と銀の枝木を二本、並べた。これにより、今夜ここに「夢使い」が寄宿しているとわかる、仕事中の看板のようなものだ。昔は縦に銀木(ぎんぼく)、横に金木(きんぼく)を渡した大きな「階梯」を設えたそうだ。次第に簡略化され、いまでは一尺ほどの枝木を使うだけのものとなった。とはいえわたしの師匠は三尺の枝木を、その祖父は屋根をも越える立派な「階梯」を立てたという。それは組合の資料館に納められたというはなしだが、わたしはあいにく見ていない。 「夢使い」の紹介があれば一般のひとも見学が可能だと伝えると、彼女はこちらのはなしを聞いていないようで、こんな綺麗なものを外に出しておいて平気なの、と目を丸くした。触ってもいいかと訊ねられたのでさしだすと、細い指が怖々とのび遠慮がちに枝木の表面に触れた。柔らかな吐息が僕の頬のとなりに落ちた。横顔に浮かぶのは、畏敬と賛嘆に満ちた表情だった。 「七つのとき、見なかった?」  僕が逆にたずねた。 「その日、熱を出して寝てたから。たぶんあなたのお師匠さんだと思うけど、やけに格好のいい男のひとの後姿はよく覚えてる」 吹き出したのに彼女はそれに頓着せず、 「十三も十九も省略してしまったの。受験だったでしょ。ほんとは親にお願いしたかったのよ。でもなんとなく言い出しかねて」 「師匠を呼べばよかったかな」 真顔で問うたつもりが嫌味と受け取られたようで眉が曇る。 「そんなこと言ってないじゃない。それに、お師匠さんには何度もお会いしてるわよ」  僕が目をみはる番だった。彼女は気を落ち着かせるかのように下をむいた。 「あのあとクラス会とか何度かあったの。あたし委員長だったから幹事もしたし」 「あ、ごめん……手伝えなくて」  葉書は棄てた。それがひとりでに届くものではないことにすら気づけなかった。今になって、彼女だけにその役を負わせていた過去を恥じた。すると、 「それはべつにいいの。そういうのは慣れてるし他に助けてくれる子もいるし。そうじゃなくて、そうじゃなくって……あたし、あのとき、分別のない、思いやりも何もないこと言ってしまって」  そこで言葉を詰まらせた。肩が震えて、小さく丸めた拳を口許に運ぶ。唇のわななきを隠そうとするのが、胸に痛かった。 「とりあえず、入ろう」  僕はじぶんの家のように扉をあけた。僕のすぐ顎のしたに彼女の白い額があった。その髪の匂いが肌を撫で、あわてて僕は横を向く。この仕事を始めてからかつてないほどうろたえた。こんなことは初めてだった。  ところが、彼女はまるで僕を意識していなかった。じぶんの想いのなかに閉じこもり、それでいて僕に何か伝えようと必死に嗚咽をこらえていた。あのときのことを謝罪しようと言葉をつむぐ努力をつづけた。  わかっていた。僕はちゃんと知っていた。謝るべきは僕のほうだ。  彼女を好きだった。このひとを、僕はとても好きだった。  けれども、それを自身でさえ認められなかった。あのとき何もなければ緩やかに、穏やかに、わたしは恋に落ちていただろう。同じ教室で同じ本を読み同じ笑顔を傾けあい、同じ時を過ごし、わたしは彼女をもっと好きになり、その感情が何であるか知りえたに違いない。けれどそうはならなかった。  だから……

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