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第二部「階梯と車輪」15

 わたしより早くあがった彼はいったん大学へ戻り、こちらの勤務時間の終わるころに帰ってきた。鞄がやけに重そうで尋ねると、中身は古文書だという。洋書を手にしていた記憶はあるが古文書とは意外な気がした。つまりそれこそが会合に関係するのだろう。  そうして並んで歩きはじめ、何から話すべきかと思い悩む。いつもは饒舌な彼の口も重く、ふたりして無言のまま道をいく。告白される前はこうではなかったはずだ。彼の好きな映画や得意料理をわたしはいくつも知っている。彼は彼で、わたしが読んだ本のことなど覚えているに違いない。年齢が近いせいか、こどものころに見たテレビの話題で盛り上がったこともある。わたしたちは、それなりに気が合うと思っていた。それに、都会に出てきてはじめて親しく言葉を交わしたのも彼だ。わたしには、この街でとくに友人と呼べるようなひともいなかった。  「また余計なことを言いますが、あのひとが初恋のひとだったりするんですか」  彼がいきなり問うてきた。思わず横を向くと、視線が合うことを嫌うように彼のほうは街路樹を仰いでいた。 「そういう何かがあったわけじゃなくて、ふたりでクラス委員をして、あとは行き違いがあって、長いこと気詰まりで……」  思えば、彼女自身もあのころ悩んでいたのかもしれない。将来について、僕とはまったく違う意味で先の見えなさに不安を抱えていたはずだ。彼女は恵まれた家に生まれ育ち、年上の婚約者がいるとの噂だった。成績は僕とそう変わらなかった。けれど、美大に行くかどうか悩んでいた。何をしてもいいと許されながら、最終的にはあの旧い家とその土地に縛られていた。おそらくは、抜け出したかったのだろう。今のわたしのように。  当時は彼女のことばを僕への弾劾と受け取ったが、あれは彼女自身の苛立ちゆえのものだったに違いない。僕が「夢使い」であること、そうして運命が定められていること自体が羨ましいと、彼女はいくどか口にしていた。けれども僕はそれを聞くのが辛かった。それ以外の選択がないことのどうしようもない不自由さを理解してもらいたかったのだ。  けっきょく話すことはなかったが。 たぶん、今の彼女はそれを知っていて、そして僕もまた、なんとはなしに彼女の想いを察している。  ふと気づくと、彼がこちらの横顔をうかがいながら呟くように口にした。 「恋愛したことないって言ってましたものね」 「そう、ですね」  あの告白のときの言葉をくりかえしていることにお互い気づいていた。 「実はおれも、そうなんですよ」 「えっ」  わたしは往来で声をあげた。もう遅い時間のせいか通り過ぎるひとはいなかったが、足も止まっていた。 「そんなに驚くことですか……」  数歩先へいった彼が振り返り、わたしはその白い顔へと言い放つ。 「二十歳すぎて、誰とも付き合ったことがないと言い出すつもりですか」 「はい」  にこりと、なんでもないように頷いた。 「その顔で?」  わたしの無遠慮なものいいにはさすがに眉を潜めて、 「顔は、関係ないでしょう」  憮然とした声が返り、わたしはひそかに赤面した。それを見た彼がにわかに微笑んだ。おれん家、ここです、と。我が家よりもずっとオンボロなアパートを指差して。

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