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第二部「階梯と車輪」18
彼はうつむいていた。こちらを見なかった。握りこむには反応がなさすぎた。かといって手をはなしたほうがいいとも思えない。けれど、ほとんど添わせるだけに留めたじぶんの掌に、うっすらと汗をかいている現象が煩わしい。彼の手は、乾いていた。そしてとても冷たいままだ。
「……あなたの時間を奪うようなことしたくなかったし、あなたに、甘えたくないと思ってたから」
搾り出すような声を耳にして、わたしは項垂れたままの彼をみた。泣いているのかと疑った。癖のある髪、染めているのではないと知っているその髪のせいで、表情は窺えない。
「あれからすぐ、あなたの仕事が忙しくなって、おれと一緒に帰ることもなくなりました。あなたは色んなひとと会って仕事してどんどん先に行ってるのに、較べておれはなんにも成長してなくて、しかもあなたの大事なひとに嫉妬したりしていただけです。これじゃ、あなたにうっとうしく思われてもしょうがない」
言葉の連なりに意味を拾おうとして、やめた。彼がわたしの手をつよく握りこんだので、ただ同じだけ強く握り返せばいいのだとわかった。
「……あなたは、ああいう女のひとと幸せになれるじゃないですか。その、あのひととは縁がなかったのかもしれませんが、けど、将来的に、そういう……」
そこで声が途絶えた。わたしが、彼の手をつかんでその指に口をつけたから。反射的にあげた顔に、
「わたしの幸せを、将来を、なぜ勝手に決める」
この言い方では誤解を招くとわかってはいたが、止まらない。
「あの告白のとき、わたしは随分と酷い態度をとったと反省した。申し訳ないと思っている。どう謝ったらいいかわからない。そう思ってきたが、そちらはそちらでわたしをひとり勝手に決めつけすぎる。わたしはたしかに女性としか寝たことがないし」
彼はそこで大仰に息を呑んで、頭をふってから声をあげた。
「恋愛したことないって言いませんでしたか?」
「言った。だが、そんなものなくてもセックスくらい出来る。出来るどころか、ないほうがいいくらいです。あれば色々と面倒だ」
わたしの謂いに、彼が固まった。
たぶん、彼はソレを知らない。
「処女や童貞の夢使いはいません。わたしは十六で経験しました。この今でも、依頼人と寝る夢使いはいることでしょう。相手が望めばのはなしですが」
わななく唇を見つめながら、わたしはその指にもういちど唇を寄せた。
「眠ってもらわなくては仕事にならないのですよ」
苦笑に紛らわせて述べたのは言い訳に違いない。わたしは一度ならず女性客とベッドを共にしたことがある。いずれも最後までしなかったし不愉快な想いをさせてもいないはずだが、こうしたことにこたえなどない。
「あの古(いにしえ)からの伝承は、そういう意味では真実といえるのですよ。歴史上には女帝の閨に侍りとりいった夢使いもいます。分限者を誑かして叛旗を翻させた者も。危険視されるいわれがないわけではない。わたしたちは特別な異能者であるだけでなく、過去に、もしかすると現在でさえ、それなりの所業をしている」
握りこんだ手に指を絡め、その指の背を舌先でなぞると、彼が鋭い痛みでも感じたかのように眉を潜めた。しかしこちらを見つめる瞳は潤んだままだ。
「たしかに夢使いはろくな死に方をしないと噂されます。それも無理のないことです。この仕事をしていれば年に幾度も妙な因縁をつけられることはある。やれ宝籤のあたりを教えろだ明日の相場を占えだ別れた女の気持ちを変えてくれだのなんだのと好き勝手をいう依頼人もいます。癇癪をおこした相手に殴られたなんてはなしは幾らでもある。そうでなくとも、寝ている合間に財布の中身を盗まれたと騒ぐような輩もいます。そういう狂言まわしと付き合わねばならないのもこの仕事のうちです」
彼はずっと眉を寄せたままだった。途切れとぎれの愛撫に感じているわけではなく、はなしの内容に胸を痛めていたらしい。けれどわたしはやめる気もなかった。
「だから夢使いを出す家は悲惨だ。わたしのように長男ひとりであれば余計」
彼が何か察して表情を変えたのを見計らい、わたしはその指を口に含んだ。もう、さして冷たくもなかったが過去に知る女性たちのそれと違って筋ばっていた。
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