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第二部「階梯と車輪」20

「あれを恋愛とはとうてい呼べませんでした。一方的なものでしたから。しかも徹底して隠された、文字通り隠微な関係でしかなかった。それに、あのひとはおれを好きだといちども言わなかった。亡くなったのも、ある意味じゃおれが追い込んだようなものです。病死でしたが、無理やり医者に連れて行けば助かったかもしれない。あのひとはたしかに世間で云うところの性的にふしだらなタイプのひとでした。誰彼問わず寝ていた。おれ以外にも少しばかり触られたこどもはいたようです。世間では、彼は性犯罪者以外の何者でもないのでしょう。それでもみな黙ってました。おれの知る限りでは容認されていた。嫌がることはけっしてしないひとだった。そのこととは関係なく、ごく一部の大人には煙たがられていましたが、みなに好かれて、尊敬もされてました。彼のほうもみなを好いていた。けれどおれのことは怖がった。おれがこどもで、あのひとを真剣に好きだったから」  わたしはただ呆然としていたように思う。彼は、そんなわたしの顔をまっすぐに見て問うた。 「あなたでも、おれの言うことはわかりませんか」  何も言えなかった。いや、わからなかった。彼の面にうかぶ、わたしが初めてみる表情を、どう捉えていいかの判断すらつかなかった。だからこそ、正直に、わからないと返したほうがいいかと思えた。だが、そう口にする前に彼が言った。 「おれは、その手の本を山ほど読みました。性的なこと、虐待のこと、権力のこと。けれど夢使いに関する書物を紐解く気にはなれなかった。どうしても、そんなふうにして彼のことを知りたいとは思えなかった。いっしょにいる間、おれたちはろくに話しをしなかった。夢使いは語り部としても優れているはずなのに、おれはただ、あのひとのからだを欲し、受け入れられて欲望が解消される瞬間だけを願ってた。おれはこどもで、あのひとのはなしを聴くちからもなくて、じぶんのきもちを口にする術も知らなくて、ただただ一緒にいることだけで満たされたような気持ちでいた。こどもでした。本当に幼かったから当たり前ですが、でも、おれはじぶんがそこらの大人よりずっと大人だと思ってた……」  彼が、図抜けて聡い子供だった事実は察しているつもりだ。賢しらというのではなく、ひとの気持ちに敏感なやさしい子であったであろうことは。 「十四で、あのひとを抱きました。抱かせてくれた。それからしばらくして亡くなりました。じぶんが病気だと知っていたようでした。親類は誰もいませんでしたが、金は唸るほどありました。すべて寄付するよう言付けてあった」  彼はそこでまた項垂れた。柔らかな癖毛が微かに震えているのを、わたしはただ見つめることしかできなかった。 「おれは、あのひとに何もしてあげられなかった。あのひとからただ奪うだけで、縋りついて、ねだるばかりだった。欲しがることしかできなくて、困らせた。きっと追い詰めたし、苦しめた。  おれは、あなたには、そうしたくないんです。わかりますか?」  わからなかった。  彼が、なにを口にしているのかが。なにも、わからなかった。わかったことは、彼が何か酷く苦しげな様子であったこととわたしに何かを問い詰めたことで、わたしはそこにいるのが、彼の傍にいるのが辛かった。  立ち上がる。  もうこれ以上、聴いてはいられなかった。

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