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第二部「階梯と車輪」21

 ほとんど蹴倒すような勢いで彼を押しのけた。でなければ、掴まれた腕をひきはがすことなどできなかったに違いない。 「おれが、気持ち悪いですか」  背中にかかる問いには首をふった。そんなことは思っていない。だが、 「そうじゃない。そうじゃないが、すまない。今は、なにも考えられない」  死人には勝てやしない。  まして相手が夢使いであればなおのこと。  彼は自身を被害者だと思っていない。じっさいのところはわからない。それでも、彼ほど鋭敏であれば、ありとあらゆることを考え抜いたはずだ。それに、彼が被害者であろうと加害者であろうと、それが世間で云うところの恋愛という名の何モノかであろうとも、彼が、その夢使いにとらわれていることだけは紛れもない事実なのだ。わたしは法律のことは知らない。けれど、誰かが何かにとらわれている様はこれ以上ないほどによく識っている。知り抜いていると言っていい。  夢をのぞむひとの殆どが、何かに、誰かに、とらわれている。自らすすんでそれに身をひたし、あるいは捧げるために夢を欲する。わたしは、そういう依頼人には躊躇いもなく魘を盛る。この左手で、おりてきた香音を爪弾いた。 「じゃあどうして」  悲鳴にも似た声が追いすがる。 「……わたしには、わからない。期待されてもこまる。応えられない」 「おれは」 「夢使いとしてではなく、興味をもってもらえたのだと思ってた」  わたしは夢使いだ。夢使いでしかないし、そうであることに誇りを持っているつもりだ。あの告白の際も、彼に夢使いについて知ってもらいたいと願ったはずだ。だから、今になってこんなことを言い出すのはひどい矛盾だと自覚している。これが酷い裏切りだとは。けれど、今それは思い知らされたくなかった。聴きたくなかったのだ。 「すまない……」  わたしは扉を閉めた。立ち上がる気配さえ、感じ取れなかった。  好きだと、言われていない。あのあとには一度も。  来た道をもどりながら、どうにもこらえきれない笑いがこみあげてきた。可笑しかった。何もかも、辻褄があう。わたしが店で夢使い稼業をはじめたときの彼のそっけない態度、依頼書を手にしたときの無視するような、腹を立てているような、あの面白くなさそうな顔つきは、そういう意味だったのだ。親しげなのに何か隔てられているような、もしや夢使いを軽蔑しているのではないかと感じたわたしの直感は、実のところそう的を外したものでもなかったらしい。  つまりは、そういうことだ。   なのにわたしは。    彼と、いっしょのシフトではなくなっただけで。  ひとりで気落ちし、はてはのぼせあがった。依頼人の前で醜態を晒し、昔馴染みに見抜かれるほど浮ついた。  愚かだった。  だが、致し方あるまい。  わたしは寂しかった。それに自身で気づきもしないほど凍えていた。この都会の街で、身寄りもなく、ただただ日々をやり過ごしてきたのだ。それで彼のような相手に告白されて、舞い上がらずにいられただろうか。  わたしでなくとも、彼なら幾らでも相手がいる。けれどわたしには何もない。なんの魅力もない。ただ夢使いだから興味をもたれたのだ。そういうひとは多い。委員長ですら、そうだった。わたしになど好意を持つ人間はいない。もしも持ってくれたとて、わたしの本性を知ればみなが去る。  わたしが師匠の御宅から出されたのは表向き一人前になったゆえのことだが、本音は、わたしを扱いかねてのことだ。  わたしは、「魘」に魅入られている。

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