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第二部「階梯と車輪」22

 十六歳で師匠の愛人と寝た。いま思えば体のいい厄介払いに使われたのだ。わたしにあてがわれたのはある旅館の娘さんで、ひとまわり年上の小柄で綺麗なひとだった。何かしら勘付いた両親はむろんいい顔をしなかった。わたしはわたしで、夢使いを理解しない親との溝の深まりを意識した。  そのころから、委員長のことは知っていた。あの学校で、もしくはあの地域で、彼女を知らないものはいなかった。それを彼女は喜んでいないふうだった。僕は遠くから彼女を見ていた。綺麗だとか可愛いとか思ったわけではなくて(そう感じた子は他にいた)、何かしら夢使いを思わせる独特の佇まいに気をひかれたのだ。  いっぽうで、性的な関心が満たされたせいか僕は同年代の女の子たちへの興味をなくした。かえってモテた反面、あからさまに避けられることもあった。僕は、たんじゅんに結婚には向かない相手だった。さらには放蕩者として知られた師匠を持ったため、身の振り方には慎重になった。それだけでなく成績は悪くなかったがゆえに面倒な問題も発生していた。  両親は、僕を国公立のどこかへ行かせるつもりでいた。大学さえ出ていれば潰しが利くというわけだ。夢使いになどならなくてもいいと、そう表立って反対されたことは一度もない。だが、言外にはっきりと刻印されたそれに癇が立った。たんなる反抗期。親も自身もそう名付けて安心した。  だから祖父の四十九日に同行しなかった。疎まれはしなかったが、名誉教授だか何かのせいか、なんとはなしに親しみにくいひとだった。けれど僕が勉強することは喜んだ。それをうらみに思ってのことではないが、模擬試験を言い訳に女性と逢った。僕はその日、委員長とすれ違った。彼女も受けるはずの試験を受けずに年上の男性と歓楽街にいた。相合傘の彼女は知らないひとのように大人びて見えた。  あなたに、あたしの何がわかるっていうの?  そうして秘密を分け合えば互いに特別な感情を呼び起こす。まして、その日に僕の両親が事故死したとなればなおのこと。  距離の縮まりはだが、ふたりの関係を歪にした。彼女は「そのこと」に触れずにいた。分別は、実のところありすぎるほどあった。幼稚で頼りない同情を寄せられれば、僕は彼女をすぐにでも好いていたことだろう。僕の孤立、無縁、他者からは不運とみなされたそれを彼女はまるで信じずに、ただまっすぐにこちらのこころの動きをだけ追っていた。彼女だけは気がついていた。それが、互いにわかった。  僕は、もともとひとの輪に入るのが苦手だ。しかも七つ以来じぶんの将来は定められていて、それは何をどうしても誰かと分かち合うことが出来ず、その抗いようのない何かに振り落とされまいとして周りを見る余裕がなかったのだ。けれど師匠は僕が迷っていることを知っていた。冷たくはなかったが、いつでも帰ればいいと口にされ続けた。中途半端な気持ちで出来る仕事ではないと態度で示されてきた。  両親が死んで、僕はほっとした。  帰る場所がなくなったことに。  これで、気兼ねがなくなった。心の底からそう思った。そして、そういうじぶんにぞっとする。悲しいでもさびしいでもなく、僕は親が死んではじめて、ほっと肩を落として息をついていたのだ。  虐待されたわけでなく、酷いことを口にされたこともない、世間で言うところのまっとうな親がこの視界から消えて、僕はようやくにして自由になれたと感じていた。  こんなことがあるだろうか。  僕は、ひとでなしだ。そう思った。たしかにそう感じたし、今でもそう考えている。  学校、やめなくてもいいじゃない?  高校教師だった親のためを思うなら、きちんと卒業し大学にも行ったはずだ。そのうえで夢使いになるという選択肢も当然のことあった。みながそれを望んでいた。師匠でさえも。いや、師匠がいちばんにそう諭した。  それらをことごとく裏切ったのは、苛烈な「悪意」をじぶんの奥底に感じ取ったからに違いない。みなの意思に従うにはあまりにも自己欺瞞が過ぎた。偽りの振る舞いにもうそれ以上堪えられなかったのだ。  あのときの選択は、師匠との間にも溝をつくった。扱いづらい弟子だと酒席で紹介されたこともある。  こんな自分を、誰かが好いてくれることなどありえようか。あるはずもない。わたしのこうした欠落を知れば誰しもが薄気味悪く思うに違いない。  だからもう、夢はみない。

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