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第二部「階梯と車輪」23

 熱いシャワーを浴びて横になると雨音がひどく耳についた。その逆に、先ほどまで振動し続けた携帯電話はようやく静かになっていた。電源を切ろうにも、深夜に依頼が来ることが多いためそれも出来ない。じっさい帰り道にメールが来た。むろん、快諾した。明日の夜は仕事になった。  わたしの日々は続いている。たかだかひとりの人間と気まずい関係になったとてこの暮らしは変わらないのだし、変えてはならない。わたしは夢をあがなうことで視界を廻らす夢使いであり、それよりなにより食べていかなければ立ち行かない。明日も体調不良で店に出ては店長にまた迷惑をかける。それは、さすがにいただけない。  だから、眠っておかなければいけないのに眠れない。こんなことばかりだ。  本当に。  ……ほんとうに。  変わらない、のだろうか。  ウソだ。変わらないことなど何もない。少なくとも、わたしと彼の関係は変わってしまった。もう元には戻れない。  こんなことなら彼の家になど行かなければよかった。けれどわたし自身が望んだのだ。彼の知る「夢使い」を教えてくれと、確かにあのときそう言った。彼はその願いを聞き遂げただけだ。その結果を予想もしなかったのは、自惚れのせいに違いない。彼に好かれていると勘違いして思い上がっていたからだ。  ではあのとき知らなければ、聴かなければ、今ごろひとりではなかっただろうか。詮無いことだが、考えずにはいられない。  彼は、どうしているだろう。  わたしにあんなことを告げて、不安になってはいないだろうか。わたしは誰にもそれを話すことはない。話す相手さえいない。けれど彼は自身の秘密を譲り渡してはくれたのだ。他でもない、このわたしに。  応えられなかったのは、わたしが悪いのだ。  それでも。  わたしには、わからない。わかるはずもない。あんなふうに期待されても困る。わたしは彼の知る夢使いではない。ただ想像できるのは、彼はきっと、わたしよりずっと聡い子供だったという事実だけだ。見た目はいかにも今時の若者風でありながら、たまに妙に悟りきったふうであったのは、そうした経験ゆえの達観に違いない。してみると、彼のひとり合点にも納得がいった。彼は、その夢使いとわたしを取り違えていたのだ。  おまえ、気づかなかったよな。  わたしはいつも気づかない。  師匠の愛人が僕に粉をかけたのも、他に何人も相手のいる師匠に嫉妬してもらいたかったからだということも。委員長の問いかけが、彼女自身の不安であったことも。  ひとがみな何の苦もなく理解しうることが、わたしにはどうしてもわからない。ようやくわかったときにはすでに遅い。取り返しがつかない。  今になって後悔している。  せめて両親の希望くらい叶えるべきであったと。大学生の彼が眩しかったのは、ただ憧れていただけではない。行けばよかったと後悔しているからだ。じぶんの頑なさ、ひとの云うことを素直に聞けない傲慢を狂おしく悔いているせいだ。こんな捻くれた生き方をして自分自身を追い詰めて、苦しんでいる。  けれどあのとき、どうしてもそれが出来なかった。自分を、許せなかった。許せないままで、今も、こうしてひとりでいる。  わたしには、それが似合いだ。  七つのとき以来、そう想い定めたはずだ。  夢使いはまっとうな人生を歩めない。歴史が証明している。じぶんだけ、そこから外れようとしてなんになる。もう諦めろ。そうして親も周囲も何もかもを振り切ったくせに、何を高望みしているのだ。愚かしい。  苦笑してまぶたを閉じたとき、再び振動を感じた。さすがに飛び起きた。  店長だった。

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