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第二部「階梯と車輪」24

「夜分すまない。あいつ、行ったか」  なぜ店長がこんな夜更けに彼の行方を問うのかがわからなかった。何かあったのだろうかと無意識に手に力がこもる。するとこちらの緊張に気づいてか苦笑まじりに続けた。 「度外れた方向音痴なんだよ。なのにいい加減な地図かいて渡しちまったから気になってな。来るなりケータイ落として壊したとかいうし、ゾンビみたいな顔してたぞ」  何があったと問わないのがこのひとのやり方だと察した。 「来たら、連絡いれるよう伝えます」 「いや、いらん。あいつを構ってやる必要はないさ」  わたしが首を捻るとまるで見えているように、 「わからんか。俺は、おまえのほうが心配なんだよ。あいつはあんななりをして図太いからほっておいてもいい。だが、おまえはそうじゃない」 「わたしは」 「ああ、弱いって云ってんじゃないよ。勘違いするな。おまえさんは怒りっぽいのが玉に瑕さ。その年で一人前の夢使いになるなんざ大したもんだ。最年少だそうじゃないか」  はなしをはぐらかされた気がした。だが、訂正せねばならない。 「それはこの数十年の記録でしかありません。いまどきはみな高学歴ですから」 せっかく持ち上げてやったのに、と舌打ちが聞こえた。それを無視して口をひらく。 「雇い主に向かってなんですが、稼業で食べられもしないのですから自慢にもなりません。それで、どうしてわたしが心配なのですか」 「どうしてってそりゃ、そういう態度がそうなんだっつっても伝わらなさそうだからせっかくなんで教えてやると、おまえが、俺の《家族》だからだよ」  かぞく? 何故いきなりそんな語が出てくるのかまったくもって腑に落ちない。雇い主とバイトを大家と店子とでもいうようにひとくくりにするつもりか。 「店長とバイトだからですか」 「そういう理屈もあるが」  声が途絶えたのは、わたしの気が散ったせいだ。 「……来たか」  店長がほくそえんだのがわかる。そのまま、んじゃ明日遅刻すんなよ、と電話が切れた。  携帯電話を握り締めたまま立ちあがる。部屋の前にもう、来ている。インターフォンを押す手が惑う。この時間だ。あまりにも遅い。遠慮がちなノックの音。小さな、それでいて確かな、リズミカルというには多少なりとも性急な。  店長には、彼が無事に辿りついたと伝わっている。頼まれごとの最低限の役目を終えてはいるのだから無視して帰るのを待つという手もないではない。夢使いであるわたしには、度外れた方向音痴なるものがどんなふうなのか想像することが難しい。だが、まさか帰り道に迷うわけはないだろう。来た道がわからないとは思えない。  先ほどより強く硬質な音が響き、拳で叩きだしそうな気配が肌を焼く。  気づくとわたしは息を詰めていた。身を凝らして外をうかがう姿は滑稽だ。扉の向こうにいるのはそれこそゾンビではないのだから。  なるほど。図太い、か。  ひとりでに口許が緩んでいた。わたしなら、あんなふうにやりあったあと相手の家に乗り込むことなどできない。しかもそれを第三者に知られるような形では、絶対に無理だ。  ならば。  鍵を回す音で彼が退いた。そうしていったん引いたはずが、ほんの少し開いたところで扉に手がかかり物凄い勢いで押し開けられる。慌てた。さらに目が合うよりさきに鉄錆に似た臭いが襲いきて心臓が鳴った。 「怪我して」  続きは、相手の口のなかに文字通り飲み込まれた。

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