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第二部「階梯と車輪」28

 いつの間にか雨はやんでいた。この寝台(ベッド)で、雨音を聞かなかったと苦笑する。  ほんとうに、あなたひどい。  隣で眠る相手がさいごに呟いたことばがそれだった。言葉と裏腹にしごく満たされた顔をしている。そう、まるで「晏」をもたらされたような寝顔だ。  その顔、転んで擦り剥いた傷のある面(おもて)をわたしは暗がりでひとり眺めている。  この地でいちばん馨り高い香音をおろしたような気持ちがした。こうした比喩は何かしら誤解を招く気もしたが、師匠の祖父が豪語していたそれでもあり、あながち間違った謂いではないのかもしれない。言い訳のようにそう思い、わたしはひそかに目をとじた。  意識がこれ以上なく澄み渡り、はるか彼方まで見渡せる。  いま、  まだ暗い東の空に、漣を立てて香音が押し寄せるさまが視える。濃く、重く、それでいてしずかな闇が、香音に切り裂かれて明けていく。暗闇が光明になりかわる落ち着かぬさまに眼を焼かれ、生まれいずる小さな香音の泡立ちが耳をそばだてる。それらひとつひとつが揺れて弾け、ぴたりと寄り添い、重なり、壊れ、また生まれ、しだいしだいに形をなし、また崩れ、集い、離れ、再び確たるものになり、何かを、つまり「ひと」を目指し、おりてくるさまが、聴こえている。  それだけでなく、  視界樹の幹が、たわわに香音をならした枝が、その金と銀に輝く巨大な樹木が視界を覆いつくすさまを、わたしはどこまでも寛いだひろびろとした想いで眺め渡していた。  不思議だ。  いや、不思議なことは何もない。  わたしは、この眺めを識っていた。  七つのときに見たきり忘れていただけのことだった。  これが視え、香音が聴こえたからこそ、わたしは「夢使い」になったのだ。わたしはそれを忘れていた。  何故この今それを思い出したのか、思い出すことが出来たのか、それを識るちからが再びわが身に還りきたのかは、  きっと、  ……  くちにのぼらせずにその名をよんだ。  彼は、眠っている。  深く、安らかな眠りが彼をやわらかく包み込み、その意識の汀にわたしが寄り添っている。これは、「晏」だ。そう呼んでも許されるほどの何かがここにある。  この麗しくも巨大な視界樹の陰で、わたしと彼はいまひとときの安らぎを得て、互いにからだを接し、意識のはしを頼りなく、覚束ない眠りの汀に寄せて、触れ合っている。  こんなにもちかく、これ以上はどうやってもそばによれないほどの距離で、  けれど、  互いに、  まったくべつべつの存在だった。  べつべつに、この視界に在った。  わたしの頬を、涙がゆっくりと伝う。つたうままに任せ、喉を震わせず、堪えもせず、ただただ流れるにまかせた。  こわばっていた何かが、すこしずつ、すこしずつだが、流されていく。溶け合って混ざり合い、何かに、時間に、そしてわたしの生に組み込まれ、ひたされて、しみわたっていく。  横たわるわたしのうえを、香音がいくつもいくつも、通り過ぎる。その「ひと」をめざし、または受け止められて、鳴らされ、聴かれ、すくいとられ、その身にしみわたり、凝り、「滋養」となるあがないの軌跡が視える。  声にならぬ音、ことばにならぬ想い、そんなものたちが香音となり、この視界に降り積もるさまが視える。わたしは、その凄まじくも切ない轟音をひたすらに聴く。  これだけの、これだけの想いを、気持ちを、感情を、意思を、記憶を、生を、この地は受け止めるだけのつよさがあり、それがまた視界樹の幹を伝わる「滋養」となって空にのぼる。わたしは滋養のかけのぼる「階梯」を視た。それは、視界樹の幹の似姿であった。そして夢は、慈雨のごとく地にふりそそぎ黄金の太陽と白銀の月華を廻すちからのみなもとであった。  わたしは、その廻りのただなかにある。  ただなかに、在る。  彼と、ともに。  いま。  とこしえに続く営みのなかに在る――……

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