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第二部「階梯と車輪」29

 起き抜けすぐに、おれ怪我してるのに、と彼が不貞腐れた顔をした。たしかにかなり無理をさせた。泣き声というよりはっきりと悲鳴を聞いた気がする。気がするでなく、あげさせた記憶がある。が、舐めときゃなおるといったくせにとこたえるのも馬鹿らしいし、よがったくせにというのも品がない。それに、わたしより若いくせにと返すのも癪だったので無視すると、今夜は寝かしませんからと意気揚々と耳もとで口にされた。 「今夜は仕事です」  え、と本気で驚いて目を丸くした彼をみる。 「昨夜メールをもらいました。仕事です、本当に」  依頼メールを開陳するつもりはないが、昨夜の様子でははっきりさせておかないとずるずると居座られそうで閉口した。すると彼はきゅうに色をなくし、うつむいた。何か凄まじく悪いことを告げた気がした。彼の好きなコーヒーはインスタントしかない。せめてお茶くらいちゃんと淹れてやろうとベッドから起き出した背に声がかかる。 「いっしょに暮らしてくれませんか」 「……寝た次の日にいきなり?」 「相性悪くないでしょう」 「そういう問題ですか」 「そういう問題以外に何かあるとしたら、それは世間の何とかじゃないですか」  真顔だった。  視線がぶつかり、わたしが折れた。 「男女で住むより言い訳しやすいでしょうね」 「なんであなたおれに敬語なんですか」  昨夜あんなだったのに、という無言の、けれど確固たる突っ込みに丁寧語だと返答するのも憚られ、乱れた髪をかきあげた。 「……踏ん切りが、つかないからですよ」  意味は、悟られた。きちんと理解する相手なことに安堵しながらも将来(さき)の苦悩が思いやられた。 「わたしには家族はいません。天涯孤独の身だ。けれどあなたはそうじゃない。長男でしょう」 「弟いますしうちはそういうのはって、おれのはなしじゃなくて……」  彼は続きをどう口にするか考えあぐねいているようだった。 「気にしないで。高三のとき、祖父の四十九日に両親が事故で亡くなっただけのことです。わたしは試験を理由に行かなかった。実際は女性と逢ってました。長らく、その事実を受け止めるのに苦労した」  彼は、わたしの顔をまっすぐに見あげていた。 「わたしは七つから夢使いになると決まっていて、言うなれば〈あずかりもの〉として育ちました。だからといって特別に可愛がられたわけでもなく、かといって邪魔にされたこともなく、もちろん不仲でもなかったけれど、きっと、ほかの家族とは違うのだと思ってきましたが、さいきんは」  わたしはそこで言葉をとめた。昨夜、店長が何か変なことを言っていたと思い出したのだ。あれはなんの戯言かと首をかしげると、彼が遠慮がちな顔でうながした。 「ああ、それなりに、そうした出来事の〈意味〉といったことなどをあらためて考えられるようになりました」  あなたのおかげで。  そう、口にするか迷った。こちらを見つめる視線の熱に、思い切って告げたほうがいいのだと感じたがなかなか言葉が出てこない。それに、あなただけのおかげではない。それでも言っておきたいくせに、わたしの口はひらかない。すると、こちらの逡巡をうかがう様子でいた彼が突然、意を決した顔つきでわたしを見据えた。 「おれが話していいことじゃないかもしれませんが、あなたは、知っておいたほうがいい」  そう前置きして時計をみた。まだ彼もわたしも家をでるには間があった。お互いの瞳があい、どうというわけではなく、ごく自然に唇が重なった。そのまま彼はわたしの腕をとってそっと隣に座らせた。 「あなたには従姉がいます。店長の別れた奥さんです。ふたりの間にはお子さんがいて、その子はあなたと同じく夢使いの素養があります」  息を詰めたままのわたしに彼がくりかえす。 「あなたには血の繋がった家族がいます。けっしてひとりじゃない。それに、その子は女の子で、あなたに会えるのをとても楽しみにしていますよ」  それを聞いてもわたしはまだ呆然としていた。彼はそこで大きく金のほうに傾いた夢秤を目にとめて微笑んだ。いつか誰かと夢秤を共に眺める日がくるのだろうか。そう夢見た日のことを思い出す。彼は再びわたしに視線をもどし、ゆっくりと語りはじめた。  わたしには夢使いの叔母がいたこと、彼の所属する会合の発起人は叔母の夫にあたる政治家であること、そしてまたその女の子の師匠にじぶんが望まれていることなどを、彼の温かな声で知ったのだ。

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