36 / 120
第二部「階梯と車輪」30
「で、おまえさん、そのまんまあいつに居座られてるってわけか」
店長が小机に座り、タバコに火をつけて話しかけてきた。エプロンを外してロッカーを閉めて振り返り、なんとこたえようか往生した。すると、
「そんな困った顔するなよ。俺は気にしないさ。俺の娘もな」
「お嬢さんは、気になるんじゃないんですか。まだ小学生になったばかりだ」
「ばーか、夢使いになるなんてけっこうな運命背負っちまったら、誰と彼が出来上がろうが別れようがそんな細かいこと気にするかっての」
「わたしと彼のことはそうでしょう。ですが、ご両親のそれは、別じゃありませんか」
店長はそよとも表情を動かさず、煙を吐き出してこちらの顔を見据えた。
「俺は離婚したことを後悔してないさ。妻も、娘もそうだろう。それに、血の繋がりだけが家族じゃないってことくらいあの年で知っとくのは悪くないと俺は思うよ」
店長はわたしの肯きを目の端にとらえ横顔をみせて続けた。
「だがな、おまえさんと俺の娘は間違いなく血が繋がってる。俺の元妻の母親が、おまえさんの父方の叔母にあたるんだからな」
「叔母の孫って、家族どころか遠い親戚としか呼びようがない気もしますが……」
知らんよ、と店長は掠れ声で笑った。それから少しのあいだ何処か遠くを想うような目をした。それを見守って、なんとはなしに吐息をついた。あの日、娘を頼むと頭を下げたこのひとの姿をわたしは生涯忘れることはないだろう。
つまるところ、会合の発起人はわたしの血のつながらない叔父であり、結婚した当時から夢使いと視界について何かしら行動すると決意して政治家になった。そして、じぶんの孫に夢使いの素養があると知った時点で会を発足させた。またそうしたことを見越した叔父は師匠とひそかに連絡をとり、わたしを店長に預けたそうだ。
残念なことに、わたしをこの場所に導いてくれた叔母に会うことは叶わない。もう何年も前に亡くなった。叔母は夢使いとして育ち、高校入学後すぐ突然家を出た。嘆き苦しんだ祖父は、わたしの父にも母にも、彼女について触れることを一切認めなかった。今になって両親の、また祖父の、それぞれの当惑を思う。いかばかりの想いであったかと。
先日、会合の件でこちらへ来た師匠から、卒業の日に話しがあるはずだったと教えられた。師は苦笑で告げた。
お前は卒業しなかったから、己(おれ)は言わなかったと。
言えなかったの「間違い」であると、わたしはようやくにして気がついた。
黙っているのはさすがに辛かった。だが、視界樹の根、視界を廻らす香音と同じで、お前自身が聴き分けて探り出さないとならない「根」のはなしだからな。お前にそのきっかけをもたらしてくれたものを、己はこころから祝福する。
師匠の前ではじめて泣いた。葬式の日にも一人前になった折にも涙を見せなかったわたしに師は面食らい、なんだ可愛いところもあるじゃないか、今の今まで知らなかったよと笑った。長いこと一緒にいたように思うが、人間なんてわからんものだなとわたしの背を撫でた。その横で、彼はなんだかくすぐったそうな顔をして微笑んでいた。彼は彼で会のお偉いさんに大目玉を喰らったあとだった。それでもけっきょく会を追われることはなく、大学に残り慣れない古文書と格闘することとあいなった。
そういえば、昼休みに店にきた委員長は店長の友人のデザイン事務所に通い始めたと話してくれた。いずれは独り立ちするつもりだという。引き比べてわたしは、コンビニのアルバイト店員を続けながら稼業に勤しむ他はない。この不況に、そう簡単に食べていかれるはずもないのだ。
「おい、依頼人との約束に間に合うのか」
店長が時計を見てあごをしゃくった。その瞬間、耳慣れた足音が廊下に響く。わたしには先ほどから聴こえていた。宵闇にまだ蒼さをとどめた空のした走る姿が視えていた。
わたしの横顔を一瞥した店長は何がおかしいのか口の端をあげ、じゃあ気をつけてな、と咥えタバコのまま手をふった。わたしは一礼して部屋を出た。
彼の、わたしの名前を呼ぶ声がとどく。そのまま誰もいないのをいいことに両腕を開いて走りよる相手を抱きとめて、店長が出てきたらどうするつもりだと呆れながら、行ってらっしゃいの声を奪うようにくちづけた。
それから、目をみひらいたままの彼へ何もなかったかのような顔で口にする。
「行ってきます」
わたしは夢使い。
今日も、この視界を廻すため夢をあがないにいく。
了
ともだちにシェアしよう!