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第三部『夢の花綵(はなづな)』「夢見ることさえ忘れはて」4

 わざとらしく固められた髪を丁寧に二度洗いする。嗚咽はシャワーの音にかき消され泡とともに流れいく。なぜ泣かなければいけないのかわからない。初めての男に遇ったから。ちがう。従兄が結婚するから。違うチガウ、そうじゃない。あんな男たちがじぶんの知らないところで勝手に幸せになっていることくらい、気にならない。  けど、  あのひとはシアワセだろうか。  不幸でいて欲しいと呪った。ほんの少しだけでいいから。  ほんの少しでいいから、あたしのことを、痛みとともに思い出して欲しい。忘れないでほしい。長引かなくていい。長引かせるほどの痛みで彼女の将来を曇らせたくはない。でも、それでも……忘れられたくない。あのひとにだけは、忘れられたくない。  あたしはまだ、あのひとの幸福を願えないでいる。別れ際でさえ、けっして幸せそうではなかったひとなのに。  男はいい。勝手にどうとでも生きていく。あれほど繊細で美しい絵を描こうとも伴侶の荒れた手をそのままにしておけるくらいには無頓着で、追い詰められでもしない限り決断することすら出来ない。従兄の恋人が妊娠している情報は得ていた。母はもう、それを知っている。今朝家を出る前に耳打ちされた。責任を取るだけましと肩をすくめ、今日あたりあなたのところにご機嫌伺いにくることでしょうよ、と。  そのとおりになった。  母は勘が鋭い。  なんにでも先回りされ、行く手を塞がれる。先生と別れたとき、従兄をよこしたのは母だった。親が出ていくと問題になるもの、あちらさまにもご迷惑でしょうと何年もたってから涼しい顔であかされる。妊娠でもさせられたらどうするつもりだったのかしらと呟いた横顔に、あたしは俯いてただ赤面しただけだった。堕ろすに決まってる、そう言えるだけの覚悟もない。けれど、あたしを生むまで何度も流産している母にそうはいえなかった。思いやったわけじゃない。母に癇癪を起こされるのが厭だっただけだ。あれが起きるとに家中が荒れるだけですまない。文字通り嵐のただなかに置かれるのだ。あたしにあたるならべつにいい。母は、よわいひとにあたる。父に、ついで自身の妹に、そしてその子である従兄に、それからもちろん出入りしているお手伝いさんや業者のひとに。  お嬢さんがまた何かやらかした、そう陰口を囁かれるのがたまらない。あたしは何もしていない。たんに母は、あたしが何をしても気に入らないだけだ。右を向けというから右を向いたのに、それさえも気に入らないという。  あたしに絵をかけといったのも母だ。先生のところに習いにいかせたのも。じぶんの愛人のところにはつかせなかった。賢明だ。あの男は、あたしに母の陰口を漏らして機嫌をとりながら若い娘のほうがいいと匂わせた。あたしに魅力があるわけではない。母より弱いぶん都合がいいと思われただけ。たいていの男は、家に連れてくると母の前でのぼせあがった。ならなかったのは先生くらいだ。たぶん、幼い娘のほうが好きなひとだから。  母は、あたしに色目をつかったあの男にも愛想をつかした。今は誰と関係をもっているか知らない。  知りたくもない。  お風呂からあがり、じしんの裸体を鏡にさらす。成熟とは程遠い、幼いままでいたいと望むからだをもてあます。  抱かれたいのは男じゃない。  たぶん、母だ。  あのひとに会って恋に落ちるまで、あたしはそれを認めようとしなかった。あのひとが母のかわりをしたのかどうかも。もし代わりだとしても、あたしはあのひとが好きだった。いまでもきっと、大好きだ。  あたしの目の前で、なんの羞(は)じらいも衒いもなく、自然に、「あかちゃん」と口にした彼女の思いがけぬ素直さが好きだった。あれほど隙なく装おいながら、妊娠したと言うのでなく、別れようとするあたしに向けて、あかちゃんと、やわらかな言葉をはなった彼女の無垢で残酷なやさしさが愛おしかった。  あたしのあごは、いま、なんの跡形もなく白い。彼女と別れたとたん、うそのように消えた。  いつか、あれが煩わしさと不愉快なものだけであったと思うだろうか。思えるだろうか。  あのひとが可愛いと褒めた疵を、とうに失われた痕を。  ありもしない何かを懐かしがり愛おしくおもうのは愚かなこと。でも、あたしはまだ執着している。しかも、別れたひとの幸福も願えず、じぶんのそれも覚束ない。  あたしはもう、夢見ることさえ忘れてはてている。  そう信じ込んでいた。  夢使いの彼に、再会するまでは。  この地でいちばん馨り高い夢をもたらしてもらえるまでは。

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