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第三部『夢の花綵(はなづな)』「夢見ることさえ忘れはて」5

 メールひとつで約束を無碍に断られる。そんなふうだから遊ばれているのはわかっていた。なのに当の相手から連絡があればあたしはそれに縋ってしまう。過去に付き合った男たちも実はこんな気持ちでいたのかと、今ごろになって酷いことをしていたと気がついた。  あのひとからの連絡が途絶えはじめて、あたしはますます食べなくなった。あのひとの女性らしい丸みのある柔らかなからだが欲しかった。抱かれるとほっとした。離れたくなかった。けれど逢いたいと重苦しいメールを送ればおくるほど相手の気持ちは遠ざかる。わかってはいたから自重した。そのぶん鬱屈がたまりよく吐いた。  仕事にも厭きていた。これが本当にじぶんのやりたかったことなのかと幾度も問うていた。でも、恋人に愛想を尽かされて仕事まで中途半端ではあまりにも情けない。都合のいいことにお昼はひとりにされたので仕事が捗った。あのひとは、仕事の出来ないひとは嫌いといつも口にしていた。  そのせいなのか、「お守り」は手放せないでいた。大きな企画の前など手許にないと膝から崩れるような気持ちになり、会社のちかくのコンビニに走った。表通りの向こうにあるお店にはいつも在庫があった。ここまでは会社のひとも来ないので足を運びやすい。  そこで、まさか夢使いの彼に再会するとはおもってもみなかった。  何度か通った。彼がいるかどうか確かめるために店の前を通り過ぎるだけのこともした。すぐに声をかけなかったのは、無視されているのかと感じたから。そうじゃないと気づくのに時間がかかった。臆病だった。  彼に思い切って話しかけたあと、洒落た眼鏡をかけた店長さんが見るに見かねたのかあたしに言った。また来てあいつと話してやってほしいと。ふだんなら余計なお節介と感じたかもしれない。けれどそのときは素直に頷いた。羨ましいとさえ思えた。何故なら彼のことを頼みながらあたしにそれが必要だと、その瞳が見抜いていた。相手の視野のひろさと懐の深さに感嘆した。周囲にどれほど心を砕いているのかも想像できた。あたしは、いつの間にかじぶんのことだけで手いっぱいになっていた。その事実をそういうやり方で指摘されたのは初めての体験だったかもしれない。  たしかに、あたしには彼と話す時間が必要だった。ずっと気がかりで謝りたかった。自身の傲慢、弱さゆえの悔恨だとも気づきながらも据え置きにしつづけた事実は重かった。それは、べつの言葉でいえばきっと、自身の生き方への後悔だと気づくことができた。彼のおかげで。  夢使いの彼はやさしかった。あのころよりずっとやさしかった。でもそれは、あたしの求めていたものじゃない。そういうことが瞬時に理解できてしまうじぶんが少し、かわいそうにもかんじた。  ほんとうは、彼に何もかも話してしまいたかった。でもあたしに気づかなかった男にそんな真似するのは癪だった。あたしは憶えていたのにと恨みもした。けれど、一目見ただけで、苦しい恋をしているのもわかった。そのひとの背中を、横顔を見つめているじぶんにも気がついていなかったのだから。  あいかわらず鈍いと肩をすくめたあたしは、たぶんその時点でもう、彼への未練など断ち切っていたはずで、でも、それでも、出来ることなら甘えたかったのだと思う。  でも、そうしなかった。  彼のやさしい手をつかむには、あたしは強情にすぎた。わかってる。そのこころに別のひとの姿を見なければそうできた。  慰めはいらない。  そういったあたしに、彼は本当に素晴らしいものをくれた。  夢を。  あたしの命のあがないを。晏(あん)と呼ばれる美しい夢を。  あたしは空を仰ぐ。晴れやかな空の青さがこの身のすみずみまで染み渡る。花の香りがあたしを満たす。満たしている。  誰に愛されなくとも、必要とされなくとも、この視界は、あたしをまるまると抱きかかえてここにある。そのことがわかった。  だからもう、じぶんのために誰かが居場所を用意してくれると願うのはやめる。  花の香りのする夢をみた。  ただそれだけで、生まれてきてよかったとおもった。  あたしが忘れていたのは、そのことだった。  あの青い空にいっぱいに、今度はあたしが絵を描く。  了

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