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第三部『夢の花綵(はなづな)』「夢も見ない」2

 おれは何気ない顔つきで本の頁を捲りながら盗み聞きしている。彼のすぐ近くで、その初恋の人との会話を。  伝説の、というのはこのひとの師匠の祖父にあたる夢使いで、たしか一万を超す人間に夢を饗したといわれる人物だ。資料館でみたかのひとの「階梯」は二階屋に届くほどのおおきさで見るものを睥睨し、その業績に相応しく偉大であった。いまなおおれの胸には横木縦木を金銀に煌めかす威容がとどまっている。あんなものを見たあとでその名を聞いては、さすがのおれも知らんふりではいられない。  おれが顔をあげたので、彼はこの場所でこれ以上会話を続けようか迷ったようだ。よくよく考えればこの会話は昔語りの類ではなかった。さらにいえば今夜はひさしぶりにふたりしてオフで、そろそろベッドへ移動したいと思っていたはずだ。そしてこのひとはそういうこちらの気持ちは察してくれているらしい。視線が、おれの頬のあたりをさまよった。おれなら目配せをするところだがこのひとはどうしたらいいか迷う。  その不器用な間に気づいた相手に何か言われたのか、髪を揺らして否定した。心なしか頬も赤い。おれが隣にいることを悟られたようだ。彼女は勘がいい。助かると言えば助かるが、少々不気味と言えなくもない。  そうこうする間に電話をおいた彼はふうっと肩で息をついた。立ち上がり、お茶を用意する。そのすぐそばに近づくために。おれはこの陽気になると熱いものを飲む気にならないが、このひとは真夏でも冷たい飲み物を好まない。  差し出した茶碗を受け取ってきちんと礼をいってから口をつける。おれはそういうこのひとの隣にしずかに腰をおろす。いきなり抱きついたりはしないし、だいたいのところは聴き取ったからこそ何も問わないでいた。  そういえば、このひとの師匠は見るからに喰えない男だった。長髪に着流し、帽子をあみだにかぶり葉巻に火をつけるような人物だ。その恰好で三尺を越える階梯をその背に負ってやけに華奢で麗しい夢秤を腰に吊るす。目立つなんてものじゃない。  しかも、このひとに渡した餞別はブランド物のパジャマだ。今日も彼はそれを律儀に身にまとっている。いつになく放心している横顔をうかがいみると彼はこちらへ顔を向け苦笑でつぶやいた。  よろしくって。  おれに?  他に誰がいる。今後も相談すると思うからそう伝えておいてくれと頼まれた。  おれたちは互いを目に写して笑い合った。珍しく、彼のほうから顔をかたむけてきた。ベッドへ行くのがもどかしく、そのままそこに倒れ込む。あとは互いにもみくちゃにし合って夜が更けた。  翌週の「会合」でスーツ姿の師匠をみた。おれはその会の末端に籍を置き、教授の下で史料編纂の手伝いをしている。といえば恰好がいいが、ほとんど役立たずで遊んでいるようなものだ。もの知らずな若者なのだから致し方ない。反面そう開き直ってもいる。因襲だか伝統だかなんだかよくは知らないが、そんなものに十重二十重と取り巻かれながら、さらに不羈奔放で一筋縄ではいかない連中が屯しているのがこの会合だ。やりにくいが、いやではない。そういう人間が好きだからこそこんな会に入ってしまったともいえる。つまり、おれの恋人もどうやらそんな人間なのだ。  そしてその師匠はというとこの会合では中堅といったところか。うえは百歳を超えるのがいる。夢使いには独特の佇まいがあるとよく言うが、その一群のなかにあってさえも一際目立つ風貌だった。例の彼女の見立てだとわかるのはどことなくモダンな拵えのせいか。ああいう師匠についていては、あのひとが妙に頑なに自身を閉じ込める理由もわからなくもなかった。  さて、どうしたものか。  話しかけるタイミングを探る間もなく、相手はこちらに近づいてきた。彼が今夜遅いのを知っているようだった。おれはおれで、いくつか気になることがあったのだ。  バーの止まり木に腰掛け、師匠は語りはじめた。

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