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第三部『夢の花綵(はなづな)』「夢でさえ、なくていい」4

 デパートでなく、コンビニが好きだとあのひとはいつも口にしていた。好きなものを誰をも気にせず買えるからと。街には万屋(よろずや)というべきものしかなく、外商部という存在を当時のおれは知らなかった。そもそも百貨店という場所に行ったのでさえ、小学校にあがってからだ。  あるとき高校を中退したと話したこのひとは、何かを羞じ、それが酷く重大事のような顔をしていた。おれはまるで気にとめなかった。おれの生まれたところでは大学に進学する人間のほうが稀だったから。それだけじゃない。海や雪のせいでかんたんにひとが死んだ。高校で何人中退し事故にあっただろう。おれは、どざえもんの男女の見分け方をあのひとから教わった。それがほんとうかどうかは知らないが。  おれは浮いていた。どうしようもなく浮いていた。それはそうだろう。おれはあの土地を出て行くと知っていた。そうこころに決めていた。  いじめられはしなかった。けれど成績がよかったために教師には煙たがられた。おかしな奴と思われていた。中学にはいってすぐ背も伸びた。男どもは単純だ。この顔のせいで女子には嫌われない自信があった。  怖いものはなかった。  遠巻きにされたいと望みながらそれでいて無視されないことは快い。おれは、おれの自惚れという愚かさゆえにひとりだった。そうと知ったのはこのひとを好きになったときだ。  あのひとだけが、おれを理解してくれている、いや、理解できるのだと思っていた。  自惚れは思春期ゆえの驕りだろうか。  恋の愚かさだろうか。  裏返しに、おれは、あのひとを理解できるのはじぶんだけだと思い上がっていたのだろうか。  今となってはそれさえもよく思い出せはしないのに。   ときどき夢のなかで海鳴りの音を聴く。叔父の家に響いていた罵声やものの壊れる音、我が家の暗い言い争いを避けて、あのひとの家へ駆けていったときに聴いたそれを。一人住まいにしてはやけに広い邸宅は海のすぐそばで、冬は怖いような場所だった。  けれどあのひとは恐れなかった。あんなに気の弱いひとだったのに海をこわがったことはいちどもない。  音がないと眠れないと哂った。おれの無知を無垢と取り違えるやさしいひとだったが、そのときばかりはそんなことも知らないのかと呆れたようにわらった。  都会に来て理解した。  あのひとを取り巻いていた騒音を。  そして夢使いがことのほか恐れるのが無音、つまりこの視界の静止するときだということを。  似ているところが、あとひとつ、あったか。  髪が、長いところが似ている。  おれは笑った。  夢使いはたいてい髪が長い。  その長い髪を揺らして果てるのを見るのはたまらなかった。

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