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第三部『夢の花綵(はなづな)』「夢でさえ、なくていい」5

 このひとは、このところようやく背骨のしたに指をくぐらせることを許してくれるようになった。ただ何も言わないで触れていたときは嫌がった。おれとこうなるまでは女性しか知らないひとだ。無理もないと思いながらも諦めきれず、おれの口に吐き出して弛緩しきったすきを狙ってまさぐった。すぐ怒鳴られた。顔を蹴られそうになったこともある。つまりおれは懲りずにくりかえした。  あるときとうとう我慢できずひとつになりたいとせがみ繋がりたいとねだったおれに、このひとは顔色を変えた。おれは無茶なことをいったかと息をつめた。すると切れ切れの声で、かわりにはなれない、とつぶやいた。なんのことを言っているのかわからなかった。顔をそむけられてはじめて、あのひととおれの関係をさしているのだと気がついた。血の気が引いた。  十四歳であのひとを抱いたと告げたのをこのひとは忘れていなかった。忘れていないどころかこんなにも気に病んでいたのだと、おれは少しも察することができなかった。  同じ家に暮らしからだを触れ合わせ、きちんと言葉をかわしてもいた。おれは言葉を惜しまなかったはずなのにそれでもこのひとの不安は晴れなかった。何をしていたのかとじぶんを呪った。このひとの、いったいなにを見ていたのかと。  そうして身を凝らせていたおれの頬に声が触れた。  嫉妬深いだけだ。  そう言って、気にするなと肩をすくめて笑ってみせた。それからまた目をそらし、少し怖い、と聞こえないくらいの声をもらした。  誰でも後ろを探られるのは怖いはずだと慰めなのか言い訳なのかわからない言葉を囁きかけたおれに、このひとが真顔で続けた。  これ以上よかったらおかしなことになるんじゃないかと……  みなまで聞かず抱きしめた。あとはもう弱いところを責めたててこのひとの悦びをただ受け止めた。  そのあいだ好きだとひたすらくりかえした。あなたが好きだといいながらそこかしこにくちづけた。うるさい、もうわかったと眉をひそめるこのひとに、おれはそれでもやめずに囁いて、しまいにはもう恥ずかしいからやめてくれと泣き顔でもって懇願された。こぼした涙は快感のためだが、恥ずかしいはおれを疑ったこころの弱さを愧(は)じてのことだと知っている。おれはだから、微塵も後悔していない。  おれが、どんなにこのひとを好きなのか、たぶんこのひとは知らない。どれほどの想いで欲し、それをひた隠してきたのかも気づいていない。  おれが何年もとりつかれ犯し犯されてきた夢のなかのあのひとを、あろうことか殺して逃げたのをこのひとは知らなくていい。  夢のはなし、ただの夢のなかの出来事とわかってはいる。けれど夢使いであるこのひとに、おれのみだりがわしく恐ろしい夢が知られはしないかとおれはいっとき懼れていた。距離をとったのはそのせいもある。古文書をよみ、ある日記にその夢をおろした夢使い自身にもその中身はみられないと記してあるのを知って、こころのそこから安堵した。  おれはかたわらにある長い髪を手にすくいとってくちづけた。眠っているこのひとを起こさないよう、細心の注意をはらいつつ。  いまはもう夢でさえあのひとの姿をみない。昔は白昼あのひとの姿を目の前にして、自身の正気を疑ったものだ。それでいて、その夜の夢に出てこなければ薄情と恨んだ。だが、あの日々は現実だった。とうに過ぎ去りながら、今も、おれの記憶だけでなく、この身に確かに刻まれている。  だからあれを繰り返すのは、  夢でさえ、なくていい。  なくて、いい。  このひとが今、おれの隣で息をしている。そのことがこれ以上なく幸福だ。このひとが生きていてくれて、この視界にいることが、おれには本当に、信じられない奇跡のように思えるほどだ。  いつか、生きていてくれてありがとうと、このひとに言える日がくるだろうか。それはただおれのきもちでこのひとの望むことばではない。そのくらいはわかる。わかっているつもりだ。それでもおれは真実そう思っていて、もしもそう伝えることでこのひとが少しでも生きやすくなるなら、そう言える日がくるといいと願ってやまない。  どうであれおれはこのひとを愛していく。  おれは目覚ましをとめてベッドからそうっと抜け出した。今日は当番じゃないが、このひとのために、まだ夢のなかにいるこのひとのために腕によりをかけて朝飯を用意しようじゃないか。じぶんに厳しいひとらしく寝過ごしたことに憮然とした顔をするかもしれない。おれが時計をとめたと気づけば余計なことをしてと叱るだろうか。はたまた申し訳なさそうに謝ることもあるかもしれない。だが、最後にはきっと笑う。それがおれの一日の糧になる。  了

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